2016年5月26日木曜日

NPO「江戸連」皐月講と里山ウォークとゴルフ

<さきたま古墳群>
正面①の前方後円墳が「二子山古墳」それから時計方向
に円墳の「丸墓山古墳」、その下に前方後円墳の「稲荷
古墳」その左に前方後円墳の「将軍山古墳」
江戸連の皐月講は「行田・埼玉古墳群と忍城・足袋蔵巡り」と銘打って日帰りバス旅行だった。この旅行で私に興味を引いたのが『埼玉(さきたま)古墳群』の言葉だった。やはり歴史好きの集まり「江戸連」だけあって参加者は51人というバスの補助席まで使う大勢の参加だった。まずは「さきたま史跡の博物館」を訪ねる。そこでは稲荷山古墳から発見された国宝「金錯銘鉄剣」のレプリカではなく実物を見ることが出来た。午後は行田市に出て現地のボランティアによる案内で「足袋蔵」巡り。
<忍城>
行田が足袋の生産地になったのは、綿布の生産地であり、また藍染が盛んであったことにより、17世紀後半から武士の内職として発達し、保管用の蔵を作り商品を火災から守ったらしい。次に行田市の中心に位置している「忍城(おしじょう)」を訪ねたが、この城は室町時代に築城された平城で、豊臣秀吉の関東平定の際に石田三成による「水攻め」に耐えた「浮き城」とも言われ、その後徳川家康の持ち城となったが、「戦国の時代、周りの権力の変遷にじっと耐え” 忍んだ城”」だった事を知った。

ところで私が今回のバス旅行で最も驚かされたのは最後に訪ねた加須市(かぞし)にある「古民家」で起きたのだ。古民家の保存に努められボランティアでガイドをされている奧澤市孝氏の熱の入った「郷土史解説」に私は聞き入ってしまったのだ。
<加須の古民家を訪ねて>
話の中で「寄居の”鐘撞堂山”を知ってますか?」と聞いて来たのでつい私は手を上げてしまった。多分手を上げたのは私一人だったであろう。私に取っては「鐘撞堂山」はこの4月24日に友人と登ったばかりだったからだ。更に話は進み加須にあった「油井が島」の城が「猪俣小兵六」による築城という話になり、またまた寄居の「猪俣の百八燈」の”盆祭り”の話になって行ったのだ。私はちょくちょく『オリンピック・レイクつぶらだC.C.』にゴルフに行っているが、行く途中に車中から「猪俣の百八燈」の案内看板が気になっていたのだが、何と今回のお話でそれが何であるかを知ったのだ。この”偶然の繋がり”は一体どうゆうことなのか? 早速家に帰って地図帳を開いてみると、何と「寄居市」と「行田市」と「加須市」は横一線上に位置していることに気づいた。
<奥澤氏の熱の入ったお話>
旧石器時代(1万年前)よりこの地に人類が住み始め、更に時が経ち海が引いて広大な平地が現れ、そこで農耕が発展して大きな村落が生まれ、やがて古墳時代(3~7世紀)を迎え、そして荘園が生まれ勢力を堅持する「平城」が北関東のあちこち築城され(8~12世紀)、鎌倉時代になって豪族の争いを繰り返し(13~15世紀)、江戸時代になって徳川御三家・水戸家の勢力に治まったのだ。古代には信州・和田峠で取れたヒスイが碓氷峠を越えて「さきたま」に送られ、中世に入って武蔵国・秩父郡から古道「山辺の道」が上野国を走る「鎌倉街道」や「羽根倉道」を横切って「奥州道」に繋がっていたとすれば、古の昔から寄居と行田と加須を結ぶ真横に走る大事な道が有ったと言うことになる。

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