2017年7月9日日曜日

最高気温の中、老人会がウォーキング!


7月8日、ウォーキングの土曜日の10時30分、気温がどんどん上がりすでに30度となった。「ウォーキングの後で”うな重”を食べよう!」と言うテーマは皆さんに受けに受けて何とこの暑さにも拘わらず参加者は22名。
ウォークのコースは江戸時代から有った「興善寺」の裏、つまり現在の我が町会会館の脇がスタート地(上の図の①)。今回のウォークの目的は「蒲焼を食べる」以外に次の2つ有った。一つは「熱中症」対策の一つ、暑いからこそ、汗をダクダク、水をガブガブ飲めば熱中症にはならない事を体験してもらう事、そしてもう一つは、我々の町がある一帯は江戸時代から栄えていた事を知ってもらう事でした。従ってウォーキング・コースを点線で【江戸切り絵図】上に書いた資料(上の図)をみなさんにお配りして、うな重を食べる昼食時に解説をしました。私たちの住む「本郷田町(現在は西片一丁目)」のすぐ裏手は「阿部伊予守」のお屋敷で阿部家11代「阿部正弘」はペリーとの日米和親条約締結(1854)で最も有名だが、阿部家14代の「正桓(まさたけ)」の時に「大椎木の広場」を児童に遊園地として解放(1872)、これが「阿部さま公園」(図の②)と呼ばれて市民から大事にされて来ました。
そこから「清水橋」(水がほとんど流れていなかったので別名「から橋』。図の③)を渡って東京大学・正門に出る(図の④)。東京大学の敷地は「加賀前田家上屋敷」の有ったところで、その中に「回遊式築山泉水園」が造られ真ん中に「心字池」が有ったが、夏目漱石の小説「三四郎」の中で小川三四郎が里見美禰子と出会いの場として有名となり「三四郎池」と呼ばれて来ている(図の⑥)。加賀藩主13代「前田斉泰」の時、徳川11代将軍「家斉」の娘「溶姫(やすひめ)」を正室に迎えるにあたり(1827)慣例に従い通い門を「朱塗り」にしたので「赤門」という(図の⑤)。
最後のゴールの地は「松平右京亮」の中屋敷で小高い山(右京山:図の⑦)になっていたが、大正11年(1922)東京府に払い下げられ、高級借家住宅や独身者アパート「清和寮」その前に「清和公園」が造られたが、今では我が町会はこの公園で毎年「お花見」を楽しんでいます。この右京山にある本郷集会所にて、近所の真砂町にある「鮒兼」から出前注文しておいた美味しいうな重にかぶりつきました。
今日は暑い一日でしたが、健康徒歩運動と、栄養たっぷり食事と、更に住む土地の見直し勉強と、おおいに充実した一日でした。