2015年12月30日水曜日

2015年は漢字一字で「安」それとも「恥」?

先日、(公)日本漢字能力検定協会が「今年の漢字」を全国公募した結果、「安」に決定したとニュース報道されていた。私は「本当かよ!」と唸った。「安」という字は「やすらか」、「値段がやすい」、「たやすい」とか「たのしむ」といった意味合いだが、決してそんな1年では無かった。そしたら「安」が選ばれた理由が「安全保障関連法案」で国民が国の平「安」を考えた年、テロ事件や異常気象で不「安」な年、そして建築偽装事件による暮らしの「安」全が揺らいだ年から来ていると説明されていた。ということは漢字「安」の逆ではないか。それならこの漢字一字はこの1年に全く相応しくない。そしたら東京新聞に今年の一字は「恥」が最適だと載っていた。それは今年こそ日本が「美徳」から遠かった1年だったと次のように解説している。「国連」が「表現の自由をめぐる懸念」について訪日調査を予定していたが日本政府はそれを来年の秋以降に延期させている。
<来年は「申年」、私の年です!!>
理由は今調査されては来年7月予定の参議院選挙にマナス風を吹かせたくない為という。産経新聞が「慰安婦問題」で右派の主張を述べた本を英訳して米国議員や研究者に送ったとは、日本のジャ-ナリズムは大丈夫か。大事故を起こした欠陥商品の原発を平然とインドに売り込む恥ずかしさ、沖縄の基地跡地にデズニー・リゾートに誘致するという「札束で顔をはる」ような発言。未来を担う子供達にひろがる貧困は放っておいて、米軍への「思いやり予算」として9千億円というまるで逆向きの「思いやりの」悲しさ。まだ終わっていない「フクシマ」も安保法も特定秘密保持法の闇もほとんど取り上げなくなったお目出度いメディア界、といった内容が書かれていたので「ホット」したのだ。
年の暮れ差し迫った29日の朝刊で「慰安婦解決で日韓合意」というビッグニュースが流れ、「お! 安倍政権もなかなかやるでは!」と思いきや、何とこれは米国から与えられたシナリオ通りに対応したという。ガックリ!
私も、”やっぱり2015年は、大人が大人として「恥」の1年だった”、と頷いてしまったのだ。 それでは皆さん、良いお年をお迎えください。

2015年12月19日土曜日

「忘年会」の連チャン?!

<木津かおり「調草子〜Kaori-ne〜」のライブ>
またまた忘年会で多忙が続いている。 数年前に週末を除いた10日連続で「忘年会」が組まれたことが有ったのだが、今年はそれに続く「連続7日」のセカンド記録を作った。
<スマホでパチリ!>
大学時代の同期が集まり六本木での忘年会、親しい民謡歌手の恵比寿での「ライブ」、更には町会の仲間との地元での忘年会、そして長崎出身同士の集まり「長崎楽会」なんて言う名の東京生まれ育ちの私がなんで?の忘年会が日比谷で。そして日がダブってしまって片方の忘年会を断っているものも考えると、出欠に関係なく今年の忘年会の数を数えると何と12も有った。その忘年会の際に撮った写真を恥ずかしながら掲載しておこう。ちなみに来週に入ってすぐに現在通っている「学校」の方達との忘年会を控えているが今年最後のものとなる。これが本当に最後で有ってほしい。
<六本木ヒルズから東京タワー>

2015年12月7日月曜日

【江戸連】落語と三味線の師走講

12月6日(土)恒例となった「堀切菖蒲園」にてNPO団体「江戸連」の忘年会が開催されました。まずは第1部が「投扇興」で始まり、次の第2部のイベントはこれも定番となった花伝亭長太楼さんの落語2題「親の顔」と「芝浜」、それに今年は「澤田響紀氏とその弟子2名」による「津軽三味線」の弾き語りが組まれていて、大いに充実した内容でした。
長太楼さんの2題の選択がこれまた凄い。「親の顔」という現代・創作落語(立川志の輔の創作という)と古典落語の代表「芝浜」の2題を限られた時間内でしっかりと熟したのです。特に年末の出し物で有名な「芝浜」という長作落語を25分位に纏め上げたのも凄い! 大いに笑わせてもらいました。
澤田響紀氏による澤田流・津軽三味線の演奏も迫力満点でバチで叩く音色が腸(はらわた)にズシリと染み込んでおりました。そしてお二人のお弟子さんも習って僅か2~3年だそうですが、ピッタリと師匠に付いて合奏されていました。そして曲間の澤田氏による「津軽三味線に関する解説」も大いに勉強になりました。
<駒>
例えば「津軽じょんがら節」でも「旧節」「中節」「新節」とあるそうで、違いを実際にひき分けてくれてたので、私でもその違いがよく分りました。そして三味線の棒の部分(つまり「棹」)には、長唄、端唄に使う「細棹(ほそざお)」、民謡に使われる「中棹」、津軽地方の民謡には「太棹」(つまり「津軽三味線」)の3種あるそうで、その材質には「花梨(かりん)」や「紫檀(したん)」そして「紅木(こうき)」が使われ、その順で値段が張るそうです。三味線はそもそも伴奏楽器として発達してきたそうで、唄い手の声の高さに合わせて調弦を変えいるという洋楽器とは違う一面を持っているそうです。
<触り>
調弦には、弦の張りを「駒」の位置変えや「太線」の位置にある「触り」などでも調整出来ることを目の前で実演してくれました。

そして充実したイベントが終わると次の第3部「忘年宴会」に入りました。年の終わりに皆んなで集まり酒で祝うのは「神道」の流れだそうで、この夜もじっくりと江戸時代を愛する仲間で日本芸能と祝い酒を楽しむ事が出来ました。



2015年11月23日月曜日

悲憤慷慨(その2):やっぱし、「亡国」に向かうNIPPONか!

前の「悲憤慷慨(その1)」で「もんじゅ」に就いて悲憤したが、言い足りなかった。あの役立たずの「おばけ開発・もんじゅ」に年間1500億円使っていると言ったが、それでは「東日本大震災」の後に国家予算として一番大事な「被災者支援」にいくら用意したかご存知ですか。平成26年度の例で言うと年間1100億円ですよ。(復興特別会計の総額としては、平成26年で2兆2000億円。しかしその内で一番大きな数字は「原子力災害からの復興再生」に6600億円)。「被災者支援」を「もんじゅ開発」と比較して、こんな国の対応に納得できますか。被害にあった東北の方々を思うと、私には納得できません。
<是非この本を一読ください!>
さて「悲憤慷慨」の(その2)は、そんなことやっている日本政府ですから、今、日本は「亡国」の道をまっしぐらに邁進していると思うのです。しかし明治の時代に、同じようなことを言っていた、つまり「こんなことやっていると日本は滅びる」と警告を発していた人物が居たことを知ったのです。この場合は「慷慨」でも「公害」が関係している話ですが。その人物の名は栃木県・佐野市生まれの【田中正造(1841~1913)】。彼は「足尾銅山鉱毒問題に取り組み、天皇にまで直訴した人物」だそうで、私が最も印象に残る彼の言葉、「国土の天産と自国の長所を捨てて、皆西洋にかぶれていると国は滅びる」と警告し、それを「畳の上に泥靴にて駆け上がる滑稽の有様」と形容したそうです。(小林裕著『真の文明は人を殺さず』小学館より)田中正造氏の指摘した通りその42年後には日本は太平洋戦争に負けて亡国しました。そして今まさしくNIPPONが再び同じように「西洋かぶれ」で突っ走っているのです。「国土の天産」とは”素晴らしい森の自然”を、そして「自国の長所」とは”人と和合してゆく精神”を忘れほけて、欧米の真似をこのまま続けてはならない。日本人よ、私たちは「Y染色体のDタイプのDNA」を持っている人類であることを自覚せよ!!

2015年11月18日水曜日

悲憤慷慨(その1):『もんじゅ』は即止めちまえ!!

本当に困ったもんだ。政府は、まだ『もんじゅプロジェクト』は実現出来るとして研究を継続しようとしている。『もんじゅ』が国家プロジェクトになったのが49年前の1966年(昭和41年)である。その時代なら「もしかすると『核燃料サイクル』は実現可能かも?」と机上で考えたのであろう。それから半世紀が経っても全く目途が立っていない。いや全く研究が先に進んでいないのである。毎年本プロジェクトに1600億円を使い、これまでに実現不可能な本プロジェクトに何と16兆円を使って来たのだ。信じられない!!何度も繰り返すが、「原子核に中性子を当て核が分裂する際に出す熱を使って発電する」といった発電技術は【神様の領域】を犯す机上のテクノロジーであり、実現は不可能なのである。立派(?)な科学者や技術者が居るのになぜそんなことに気付かないのであろうか?【神様の領域】を犯している技術は万が一の事故が起きた場合には手の施しようがない。それは3・11の福島原発事故の結果を見てもはっきりしている。汚染された泥や水を袋に入れて保管しているが、この袋の寿命は? やぶれたらどうするのか?大量の使用済み燃料棒は、今はプールに入れて保管しているが、最終的にはどこへ処分するのか全く現状では目途が立っていない。何度も言いうが、本プロジェクトは即「廃炉」に切りかえ、まずは解体し、最終処分に持って行くべきなのだ。私たちは遂に孫やその先の世代にまで【負の遺産】を作ってしまったのだ。
本当に御免なさい!!

2015年10月26日月曜日

美味しい西洋料理を満喫!!

現在、専門学校では「オープンキャンバス」や「体験入学」の最盛期なのです。昨日(10月25日)の日曜日、調理師専門学校の「キャンバス祭り」をワイフと二人で訪ねて学生さんの作った「西洋料理フルコース」をびっくりする料金で楽しむことが出来ました。そして何とスタートに「ウエルカムドリンク」のワインがサービスされたのにはビックリでした。まずはアルコール類は全く無いと思っていたものですから。兎に角、料理の一つひとつがびっくりするほど手が込んでいて、味も最高なのです。各テーブルに学生のウェーターが付いて出てくる料理を説明をしてくれます。これがまた、よく教育されていて、大変に居心地が良かったのです。それではそのフルコースの内容を紹介しましょう。
<MENU>
サーモンと甘海老のタルタル タプナードとメルバトースト
 ◆最初の冷菜のようなもので、さっぱりとした味でたまらなく
   美味しい。写真撮り忘れました。
秋野菜と鶏ささみのテリーヌ ソ-スレムラード
 ◆上の写真の料理です。鶏のササミがとても柔らかくソース味も
   最高!
オマール海老のビスク ナージュ仕立て

牛フィレ肉のステーキ マデラソース

デザート盛り合わせ

自家製パン
コーヒー

さてさて最後にこのフルコースのお値段は? お一人1500円でした。本当にじっくりと小一時間お料理を楽しむことができました。
学生の諸君! ありがとう、そしてご馳走様でした。


2015年10月17日土曜日

気持ちいい「古本」との巡り合い


先日久々に時間が取れたので神保町に出て古本を漁った。いつものように「3冊まで500円」の店に入って古本を漁る。この時間がまた楽しいのである。
今回は数分で「ジャパン発見伝」(山本茂著 展転社)、「福音について」(浅田次郎著 講談社)、「原子炉の蟹」(長井彬著 講談社)の3冊を500円でゲット出来た。江戸川乱歩賞受賞の「原子炉の蟹」はこれから楽しみに読むのだが、自称不良作家・浅田次郎のエッセイ集「福音について」も笑いと涙で読まして貰ったが、何と言っても昭和12年生まれの山本茂氏の「ジャパン発見伝」には感激したのである。私は「日本人は【Y染色体ハプログル-プ分析】により他の人種とは違う」という私論を主張し続けてきているが、この本はその理論を援護射撃してくれるような内容で埋まっていたのだ。特に強調したいのが、「何故に日本人は自虐精神で固まってしまっか?」に関して、是非ともこの本の第20章「アジア植民地解放の大義」を読んでいただき、いかに我々は太平洋戦争に関して事実とは違った教育を受けてきたかを知る事が出来、そして終章の「若者よ、胸を張って旅を往け」を是非みんなに読んでもらいたいと想う。Amazonの古本で検索すれば400~500円で買えます。是非一読を!

2015年10月9日金曜日

松茸パーティを満喫!

私は現在30ほどの「グループ」に入っていますが、その中に「ここや会」(会員:9人)というのがあります。名の由来は「好々爺が集まる会」だったのですが、その後美女が二人加入されましたので、「仲間が集まるのは、こ・こ・や!」の会となりました。今回の「ここ」は【松茸づくし料理】が楽しめる長野県・伊那市・高遠に在る100年の歴史を持つ【竹松旅館】でした。(参加者:5人)
今年は初夏に高温多湿が続き、後半になって雨が多かったので松茸は大豊作の年だそうです。そんな訳で今回は「もういや!」と言うほど松茸を食べる事が出来たのです。
<赤そばの里にて>
「松茸づくし料理」とは、「松茸寿司」「松茸の刺身」「松茸の煮付け」「松茸の網焼き」(チョットすだちを搾って、そのまま口へ、これが何と言っても最高)「土瓶蒸し」「松茸ごはん」そして松茸+雑茸と馬肉の「すき焼き鍋」。この料理コースに並行して飲み物は「松茸酒」(焼酎に松茸を漬けたもの)で始まり、次に燗をした日本酒に松茸を刻んで入れた「松茸熱燗」ってな具合で、「もう結構です!」と言うほどの「松茸づくし」なのです。更にもう一つ、寝る前に入る風呂が何と「松茸風呂」なのです。ここまでやると一夜明けても体からほのかに松茸の匂いが漂うほどになります。

<竹松旅館のご夫婦と記念写真>
今回の旅は1泊2日でしたが、伊那谷は私の庭でもあるので、レンタカーをして、「赤そばの里」、「高遠城址」、「中央構造線公園」、そして「高遠ホテル桜の湯」の露天風呂にて汗を流しました。そして翌日は標高1800mの「鹿嶺高原」の頂上まで車で上り、チョット雲が掛っていましたが中央、南アルプスの迫力を楽しみました。また初日の昼食は伊那市内の「こやぶ」にて、そして2日目は山奥に入って「行者そば」の味覚を楽しみました。旅の最後は伊那市校外にある「JA市場」に乗り入れ、皆さんは「リンゴ」(この時期は「シナノスイーツ」や「秋映え」)のお土産を箱ベースで購入し宅配を手配して大変に満足顔でございました。きっとこの2日間は皆さんに取って目の回るような旅だった事でしょう。
<「鹿嶺高原」見晴台から雲が無ければ南アルプスはこう見えていた>


2015年10月3日土曜日

夏祭り終わる!


毎年のことですが、何時もこの時期が来ると何かソワソワするのです。やはり夏の終わりを告げるイベントだからでしょうか。今年は台風の経過とかで天候が危ぶまれましたが、祭りの週末(9月26/27日)はお陰様で雨には降られず予定通りのスケジュールで執り行われました。毎年私たち老人会「みのり会」は【神酒所の管理】をお引き受けしています。
町会の役員や青年部は神輿担ぎ手への食事/飲み物の準備、こども縁日でのゲーム運営やら景品引き渡しなどなど忙しく走り回っています。神酒所の管理といいますがこれも結構大変なのです。引っ切り無しに「奉納金」を収めに来た人への対応、「お返しのお神酒」を渡してその入金管理、そして白紙に奉納金額と供物名/氏名を墨で書いて外の看板に張り出すのです。金額や張り出し内容にミスがあると、その原因調べと訂正がまたまた大変な作業なのです。
ここ本郷田町のお祭りはこの近所でも夏の最後のお祭りだそうで、ビックリするほど多くの神輿担ぎ手が「今年の担ぎ納め」として集まって来てそれはそれは迫力充分です。飛び入りの担ぎ手が神酒所に駆け込んできて「半纏ありますか?」と訪ねてくる人々への対応も大変です。しかし神酒所の畳の上で座っていればいいのですから楽でしょうか(?)。神酒所の前に戻ってきた神輿に、担げと誘われ年甲斐もなく私も神輿を担がせて貰いましたが、その瞬間の「興奮の味」が忘れられません。神酒所前での神主さんの「御霊抜き」儀式にて、お陰様で今年も例年通りに、楽しく「夏祭り」を終えることができました。

2015年9月25日金曜日

空振りだった国会議事堂前


あの安保法案が参議院を可決で通過した後、この後はどうするのか?と自分なりに気になっていた。自分の気持ちに整理を付ける為にも自分で国会前に行こうと心に決めていながら、あれやこれやとスケジュールで埋まり中々実行に移せなかった。シルバーウイークの最後の日、9月23日の午後が自由になった。それ!と家を出て、何はともあれ地下鉄で「永田町」に向かう。この時の気持ちは、デモに参加が出来なくとも、心に決めていた事を実行しないのは何か気持ちが悪いと思い、やっと自由になる時間が取れた瞬間にそのような行動を取らせたと思う。
永田町から「国会図書館」の脇を通り「憲政記念館」を右折して国会議事堂の正面に向かう。あまりの静けさに何かおかしいと感じた。秋晴れの国会前にはビックリするほどの静寂が有ったのだ。それでも20数名の私と同じような考えで来てしまったような人々が思い思いの行動を取っている。やっぱり参議院を通過してしまったら、もう人々は諦めてしまったのだろうか。ちょっと寂しさが襲ってきたが、自分の高ぶる気持ちを抑えようと、一層の事ここから家まで歩いて帰ろうと決めた。
<二重橋前の人波>
桜田門を通過して、皇居正門前に来ると観光客でごった返していた。すれ違う人々の半分以上が日本語を話していない。「いいぞ、いいぞ、観光立国ジャパン!!」 これが普段の平和な日本の姿なのだろうか?
竹橋~神保町~水道橋と歩き通して、我が家には午後4時過ぎに到着。その日の夕方TVニュースを見て、国会前の静寂が納得できた。実は「さよなら原発と戦争」の全国集会が「代々木公園」で開催されており、私が国会前に居たころ、本来なら国会前に集まる皆さんは、代々木公園から渋谷に向けてデモ行進をしていたのだ。完全に私の国会議事堂前行きは空振りに終わったが、何か胸に支えていたものがス~ットと通った気がしている。「よし、また機会を見つけて国会前に行ってみよう!」


2015年9月20日日曜日

美味しい「すだち蕎麦」はいかが!

私は「蕎麦道場・愚直庵」に通い始めたのが2011年6月でした。そして今回(2015年9月17日)に訪ねたのが16回目となりました。つまりは年平均4回ほど道場に通った事になります。そしてその間に2回ブログに蕎麦研修の事を掲載しました。1回目の掲載が2013年6月1日『”たかが蕎麦されど蕎麦”の道を学ぶ』、そして2回目が2015年1月31日の『”そば打ち”の精神を学ぶ』でしたが、回を重ねる毎に益々「蕎麦道」の奥深さを実感致します。まさしく「蕎麦道」は、偏らず、拘らず、囚われずに一歩一歩あるいて行くしか道は無いのでしょう。
<私が作った「すだち蕎麦」>
今回は「すだち蕎麦」の料理法を学びました。毎回頂く「蕎麦たれ」を1対0.5で薄めた「つゆ」を作り冷やしておきます。次に蕎麦を茹でて丼ぶりに入れ、その上から冷えたつゆを挿して、その上に薄く切った「すだち」をパラパラと置くだけで完成。食する時には箸で「すだち」をグサグサと刺して「すだち」の酸味をつゆに混ぜ合わせます。これがこれがサッパリとした味でビックリしてしまうのです。料理に関してはプロ級のワイフに私の作った「すだち蕎麦」を食べて貰ったところ、「何と美味しいのでしょう!」と言ってくれたので、普段は褒めた事の無いワイフの感想ですから、これは間違いなくサッパリ系ファンには答えられ無い味なのでしょう。証拠写真を載せますが、この写真を見て頂くと、「すだち」の切れ具合と乱暴な盛り付け、蕎麦の太さなどから違いなく私の作品である事が証明されています。しかし味は絶品です!

2015年9月12日土曜日

2年半ぶりに「油絵」完成

<2015油絵【菊坂下道・路地裏】>
2年半掛けて完成した油絵が上の「菊坂下道・路地裏」です。そんなに長い期間が掛かったとはよほどキャンバス・サイズが大きいかといえば、たったの【F8(444X380mm)】ですから大したサイズではありません。それではなぜそんなに長い期間を要したのか? それはキャンバスに向かう時間が無かったと言うことです。これが油絵のスバラシイ所なのです。と言うことは、この絵は2年半も三脚スタンド(イーゼル)に乗ったままジットしていたのです。時々私は思い出したようにキャンバスに向かって絵の具を入れますが、それも1時間ほどです。従ってこんなに時間が掛かってしまったのですが、表題で「完成」とは書きましたが、油絵には完成などなく、描き加えたければどこまでも追求して良いのであって、終わりとは「ここで描くのを止めた」と言うことです。またいつでも気に食わなければ描き足してもいいわけです。
この絵は実は2年半前に描き止めた「本郷・鐙坂(あぶみざか)」と対になっておりまして、上の絵に描かれた階段を上って右に折れると「鐙坂」の途中に出るのです。「鐙坂」の謂れについてはHP上の「油絵2012年作品」の中で解説していますのでお読みください。鐙坂の場所に関しては下に示す地図上の赤色+のところです。

また、2015年作品「菊坂下道・路地裏」に就いての解説も小生HP上の「油絵作品」<KAZ’s Oil Painting>欄をご覧ください。更にこの絵が8月の時点でどんな絵だったか?は私の8月1日ブログ「老人会ウォーキングと樋口一葉」の中に載っています。さてさてどこが描き加えられているでしょうか? 

私は1995年末から油絵を始めましたので、今年で20年目となり、作品総数は62作品となりますが、年平均にしますとわずか3作品/年ですから大したことではない様です。その内で私の手を離れ現在
小料理屋や歯医者や友人宅などで掛かっている作品が15点になっています。そしてこの度ある「専門学校」の食堂に7作品が展示されました。本当にありがたいことであり感謝しております。
<専門学校・食堂ギャラリー>

2015年9月5日土曜日

第14回『文京を歩くかい』の実施日が決定!

<音無親水公園>
<江戸時代・板橋宿>
お待ちどうさまでした。今年の『文京を歩くかい』の実施日が決まりました。多くの「歩く」ファンから「今年はやらないの?」との問い合わせを頂きながら、中々スケジュールを組めずして秋を迎えてしまいました。
もう14回目になるのですね。随分と長い間続けさせて頂いております。
<現在の板橋>
これまでは「歩き」に重点を置いて15~17kmを歩いていたのですが、今年からはあまりガツガツと歩くのは止めて、少しゆっくりのんびりと景観を楽しみながら歩こうという事で総行程はこれまでの半分ほどにしております。そして今回のテーマは「石神井川に沿って歩き、旧中山道を歩いて巣鴨まで」としました。開催内容は次の通りです。

<近藤勇の墓>
日時:2015年10月31日(土) 13:00~
集合場所:JR王子駅 北口 親水公園口 改札を出た所
集合時間: 13;00
コース: 王子駅→音無親水公園→王子神社→加賀第二公園→板橋宿→近藤勇の墓→千川上水公園→巣鴨庚申塚→染井墓地→とげぬき地蔵→JR巣鴨駅 解散 →<懇親会>
参加申し込み: 宮原メール miyaha@kazum.net


多くの方々の参加を期待しております。

2015年8月14日金曜日

東京都に森はどの位あるの?

<東京の西、多摩の山々>
こんな事を考えてみた事はありますか? 私は「今や東京都には殆ど森らしい森は無かろう」と思っていたのですが。 実は先日、私の通っている専門学校に「東京都森林組合」の方が訪ねて来たのです。「えっ!東京都に“森林組合”?」とピンと来なかったのです。彼らの訪問理由は多摩市にある我がグループの「認定こども園」に東京都の支援で「多摩産材」で作った木製遊具を設置する為の打合せだったのです。しかしこの会議で私はいろいろ知ることが出来ました。
<多摩産材で作った遊具>
ところで東京都にはどれほどの「森林」があると思いますか? 何と東京都の面積の40%が森林だそうです。その7割が多摩地域西部に偏在し、その4分の3が私有林だそうです。そして昭和35年には2000人を超えていた林業従事者も平成17年には200人ほどに激減し、51歳以上が全体の約6割だそうです。
この林業従事者が激減した原因は、昭和48年頃からの輸入木材による低価格化で林業の採算性が著しく悪化し、廃業に追いやられるケースが多発し、伐採する人も居なくなり、山は放ったらかしにしたままで、20年以下の若い森林は極端に少なく、高齢杉林からのスギ花粉飛散量の増大や、二酸化炭素吸引能力の低下が大問題となっている訳です。現在議論されている「TPP問題」も余りに経済を重視し過ぎて、第1次産業を守る事の重要性をないがしろにはしていないでしょうか。不安が募ります。
<人の手が掛かっていない滅びゆく山道>
さて「多摩産材」の話ですが、これは多摩でとれた木材に「産地証明」を付けて都内の保育園向け遊具として、あるいは多摩材を使った家づくりには都が「優遇融資制度」を付けるなど、林業の復活に努めているようで、林業従事者も平成22年には400名近くまで増加したそうで、これは大変にうれしい話です。

そこで「森林」に関連した日本人として反省せねばならない別の話をしましょう。それはスーパーやコンビニに山のように積まれたあの「コピー用紙」に就いてです。日本は中国に次いで世界2番目にインドネシアから木材を含む林産物を輸入しています。日本で流通しているコピー用紙の3枚に1枚はインドネシアから輸入したものです。と言う事は日本がインドネシアの熱帯雨林破壊や地域住民との紛争に深く関わっていることになります。
更に問題なのはこの紙製品だけでは無く、チョコレートやスナック菓子、洗剤や化粧品類に使用されている「パーム油」(日本では「植物油脂」と表示されている)も自然環境破壊に関係し且つ児童労働や強制労働に結び付く社会的問題を引き起こしているのです。

これらの問題は日本の「最終ブランド企業」の責任も大きいとは思いますが、まずは消費者の私たち一人ひとりが、「安ければいい」だけで買い込むので無く、製品が作られる背景を知り、自然資源の持続可能性に注意して生産している企業の製品かどうかをチェックしながら購入する行動が求められているのではないでしょうか。
<こんな生き生きした森林で山を埋め尽くしたい>

2015年8月1日土曜日

老人会ウォーキングと樋口一葉

7月25日(土曜)地元老人会にて「樋口一葉ゆかりの地を訪ねて」というテーマでウォーキングを実施した。参加者はなんと19人。この催しの目的は、我々は「本郷田町」に住んでいるのだから、この地が生んだ悲劇の美女「樋口一葉」について知る事と、健康維持のための地元での軽いウォーッキング、そして土用の丑の日の翌日に当たるので「うなぎ」を食べて体力をつけよう、という「学ぶ、歩く、食べる」がセットされた企画なのだ。「学ぶ段」では文京区の集会場を使って、私が「樋口一葉の生涯」について約1時間スピーチをし、「歩く段」では一葉ゆかりの地ということで、「一葉終焉の地」→「右京山・清和公園」→「一葉旧居跡」→「伊勢屋質店」→「一葉桜木の宿跡」の行程をゆっくりゆっくり2時間ほどで歩いて、午後1時に「食べる段」として真砂町の鰻屋「鮒兼」にて昼食をとるというスケジュールである。
<参加の皆さんが極暑の中をウォーク>
しかし朝からギラギラの真夏日で気温がガンガンと上がり、歩き始める前に30度を超えていた。高齢者の健康を考えると無理な行動は禁物と判断し、ウォーッキング行程を半分以下に短縮、しかし鰻屋の予約時間を早めることは書き入れ時なのでと断られており、止むを得ず「学ぶ段」の時間を延ばすことで調整した。しかしスピーチを2時間に広げるのは大変なことだったが、次のような内容の話をして何とか時間のつじつまを合わせた。
まずは一葉の両親”大吉とあやめ”が山梨県塩山市から駆け落ちをして江戸へ出てくる話から始め、一葉の気が強い性格はチャント親譲りなのかもしれないとお話した。そして次に一葉の儚い24年の生涯を”4つの時代”に分けてお話をした。1872年5月2日、一葉は内幸町で生まれ(二男三女の次女で4番目 本名:樋口奈津)14歳ころまでは家族円満で「幸せな時代」であったが、15~20歳の時代は本郷菊坂下道に住んで居り、兄そして父を続けて失い悲しみの中で、一葉は女戸主として家計を背負い、お金を稼ぐには「小説家」がいいと「半井桃水」に文章構成の手法を学び始める。しかし師匠の桃水と恋に落ち入り悶々とした「苦しい時代」であった。
<菊坂下道・一葉旧居前の路地>小生の油絵(未完)
そして21~22歳の時代は桃水と別れることを決意し、吉原遊郭のそばの下谷竜泉寺町に引っ越し「駄菓子屋」を開くも事業に失敗してしまう。しかし駄菓子屋での子供相手を題材にした「たけくらべ」が雑誌「文学界」で連載が始まる。お店をたたみ、いかがわしい酌婦街の賃宿に引っ越して娼婦の代書屋をしながら小説を書いたこの時代を「一葉の塵の中での闘いの時代」と言われる。そして23~24歳の時代は、小説家で身を立てようと本郷丸山福山町(現在の西片)に移住し、作品「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」などを書き上げ「一葉文学開花の時代」と言われるが、その期間も短く1896年11月23日に24歳の若さで夭折する。

たった24年の人生だったが、その120年後、彼女の像が誰もの財布の中に有るというその偉大さ!一葉はその短い生涯で15回もの引っ越しを繰り返していたが、我々が住んでいるこの地「本郷」が大好きだと言っていたという。私のスピーチも「このすばらしい本郷田町(現在は西片)に住んでいることを誇りに思おう!」と言って終わりにした。

2015年7月22日水曜日

「文藝春秋」八月号が面白い?

私は「文芸春秋」の定期購読者ではない。新聞の広告、電車内のチラシを見て、面白そうと興味を引いた時だけ書店で購入している。八月号は【巨弾特集 戦後70年 崩壊する神話】が目玉記事だが、私を引き付けたのはその特集ではなくその下に書いてあった【習近平暗殺計画】であった。
読んでみて目玉の「巨弾特集」は内容は今ひとつだが、何が巨弾か推理してみるとページ240~334となんと100ページ近くを占めているということか。53氏にそれぞれテーマを持って2ページほどの短文を書いてもらったのだろうが、「戦後日本の神話の徹底分析」というには、余りにも多岐にわたり過ぎて支離滅裂でこの特集は大失敗。例えば、あの石破茂先生が「キャンディーズでアイドルは終わった」なんていう文章を書き、櫻井よしこ女史が「憲法9条は70年前に死んでいる」という題名を言い間違えたようなエッセイを書いている。
ところで興味を引いた【習近平暗殺計画】は加藤隆則氏によるすっぱ抜き特ダネだそうで、読んでみて中身は大した内容ではなかったが、むしろ私に興味を引かせたのは、彼が「読売新聞社」の記者だったが、この特ダネ記事が「ボツ」にされたことに腹を立てて読売を辞職した事と、その後その記事を文芸春秋社が取り上げたという事にあった。

以外に面白かったのが【「中華膨張」南シナ海支配の最終段階】で中国が何故南シナ海をコントロール域にしよと躍起になっているかの目的が語れているが、元海上自衛隊最高幹部の会談だけに真実味を感じた。そして【「太平洋戦争の肉声」日本型リーダーの致命的な欠陥」】も現在の安倍総理の国会での動きにダブッて、戦争は避けねばならぬと再確認させてくれた記事だった。結果的には掲載記事の8割がたを読んでしまったのだから、月刊誌価格800円は安かかったのだろうか。それにしても世間では国会議事堂を覆うアベ騒動やオリンピックに関連した無責任な大人たち、かと思えばサラリーマン社長のはずかしい東芝問題などなど、一体日本はどうなっているの。今夏の異常な高温は益々頭を狂わせ続けるのだろうか。

2015年7月18日土曜日

カブト虫騒動

現在購読している新聞配達所が企画「カブト虫プレセント」を毎年行っている。孫が喜ぶので毎年頂きに上がっている。今年は孫が二人に増えたので図々しく2ペア頂いた。息子一家がこれを取りに来る前にワイフが菓子の空き箱を工夫して虫かごを作った。そのことを息子に電話で伝えると、息子が「小さな虫かごにオス/メス2組を入れると喧嘩し合うので分けた方がいい」と言い出し、早速ワイフは丸型タッパウエアを使ってもう一つの即席虫かごを作って1ペアをそこに入れた。
2つの虫かごには、空気が通るように窓を作ってやり、そこに台所の流し台で使う「排水口用水きりネット」を貼り付けている。
<ワイフの作った手製虫かご>
事件は夜10時ころ起きた。居間でTVを見ていたワイフが突然「キャ〜〜ァ!」と叫ぶではないか。自分の部屋にいた私が慌ててそばに行くと「こんなに大きなものが私の顔をかすめてそっちの方へ飛んで行ったわ。あれはゴキブリよりズ〜〜ット大きかった」と真っ青になって首を傾げている。私は直感的に「それはカブト虫だ」と思い手製の虫かごの中を調べてみた。確かに丸型タッパウエア製虫かごの「水きりネット」が食いちぎられ1cmほどの穴が開いていて、メスの姿がない。サァ、困った。次の問題は、この家中からこの一匹を探し出さねばならない。ワイフと二人で、「確かこの辺に落下して行ったように思う」という感を頼りに台所中を這いずり回ってくまなく探した。「いました!いました!」流し台の脇の醤油などの調味料が置いてあるビン類の間でゴソゴソしているではありませんか。翌朝、ワイフが大声で「菓子箱製虫かごのネットの部分に大きな穴が開いてますよ」と私を脅す。虫かごの中を探すとやはりメスがいない。其の後私は出勤してしまうが、昼前にワイフから電話が入り「居間のゴムの木の脇で発見しましたよ」との事。以外にも早い発見に一安心。しかし私は考えさせられた。「何故メスのみが館(虫かご)から脱失をするのか?」じ〜〜っとカブト虫の行動を見ていると、やはりオスがメスに対してしつこ過ぎるのでは、という結論に達した。事件はまだ続く。虫かごにセロテープで止めたり、輪ゴムでしっかり抑えるなど対策するも、カブト虫のメスはシラットして脱出してしまうのだ。ワイフはゴキブリホイホイの館に入り込んでいるカブト虫を発見、それを取ってやる努力は並大抵のものではなかろう。
<きれいな入れ物に入ったカブト虫>
エイ!と取ってしまえば、ノリで簡単に手足はもぎ取れてしまう。ワイフは焼き鳥に使う串を使って少しずずはがしてやったそうだ。虫が大嫌いなワイフがよくもまあカブト虫をいじれたものと感心させられた。女性はいざとなった時には予想を絶する力を発揮するのだろう。もう一つ、ワイフのすごい知恵が発揮された。
<ワイフの作った作品の残骸>
こんなに頻繁に脱出され、その捜索をさせられるのはたまらないと思ったワイフは「洗濯ネット」でそれぞれの虫かごを包んでしまったのだ。3日目の朝、2つの選択ネットの中でメスがごそごそと動いていた。もう、これはアカンと、早速近所のオリンピックに行ってカブト虫用のカゴを買ってきて只今そこに2ペアを入れた。これで今夜から安心して眠れそう。明後日の月曜(海の日)に息子家族がカブト虫を引き取りに来ることになっている。早くその日が来て欲しい。


2015年7月15日水曜日

「安保法案」が強行採決されてしまうがーー

7月16日は私の71歳になる誕生日。70を過ぎてしまえば、誕生日を迎える事はそれほど嬉しい事ではない。精々「この1年無事に生きてこられた。もう1年健康に過ごそう」位に思う節目のときと思っている。しかし今年はチット違う。不名誉な出来事が私の誕生日に起こるのだ。つまり「安保法案」が衆議院本会議で可決されてしまうのだ。国民は何の手の打ちようもない。そこで、非力な国民一人ひとりは何をするか。こうしようではないか。  新聞やTVニュースを見て、7月16日に「安保法案を可決」させた議員をよく覚えておくことだ。勿論全員を記憶せよ、ということではなく、自分の選挙区から出馬している議員がいたらその彼を記憶しておく事である。次期選挙の際にはその人を選らばない事にするのだ。そうして1歩1歩変えて行くしかないのだ。そうすることで、少なくとも今の元凶(Aちゃ~~ん)は政権を失うであろう。頑張ろうよ、私たち一人ひとり。 京大の教授や学生で作った「平和声明」をしっかりと受け止めよう。   戦争は、防衛を名目に始まる/ 戦争は、兵器産業に富をもたらす / 戦争は、すぐに制御が効かなくなる / 戦争は、始めるより終える方が難しい / 戦争は、兵士だけでなく、老人や子供にも災いをもたらす / 戦争は、人の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる / 精神は、操作の対象物ではない / 生命は、誰かの持ち駒ではない / 海は、基地に押しつぶされてはならない / 空は、戦闘機の爆音に消されてはならない / 血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい / 学問は、戦争の武器ではない / 学問は、商売の道具ではない / 学問は、権力の下僕ではない / 生きる場所と考える自由を守り、創るために、私たちはまず、思い上がった権力にくさびをを打ち込まなくてはならない。

2015年6月28日日曜日

讃岐を訪ねて

NPO法人「楽しいひととき出前どころ」の主催による『四国・丸亀コンサートの旅』(6月20〜22日:2泊3日)に参加し讃岐を満喫して参りました。讃岐と言えば「金刀比羅さんとうどん」位に思っていたのですが、今回の旅は文化度が高く大変に充実した旅だったのです。私にとって讃岐は初めてなので多くの発見が有りました。
<讃岐の山々>
高松空港から「栗林(りつりん)公園」に向う途中の車窓からは円錐状の小山がポコポコと見えるではありませんか。讃岐には7つもの「富士」が有ること(讃岐七富士)を知りました。それは今から1400〜1100万年前(中期中新世)の火山活動の産物だそうで山頂に「讃岐岩質安山岩」が覆っているのであのように美しい富士形の小山が群立しているそうです。
<栗林公園の松>
次の驚きは「栗林公園」の中に有りました。この公園は水戸光圀の兄「松平頼重」が初代の高松藩主となり、その後歴代藩主に引き継がれて100年掛かりで作り上げた回遊式庭園だそうですが、公園内の松林が凄いのです。職人が巧みに手を掛けて作り上げた盆栽松が並んでいて、この松林は薬草を作っていた場所を隠す目的で植えられたそうで、これも私を大いに驚かせました。庭園の中で栗の木には全く気がつかず、こんな庭園なら「松林公園」と名づけた方がピッタリではないのかなんて独り言を言っておりました。
高松市内のホテルに向う途中で「屋島」に寄り、四国霊場第84番札所「屋島寺」を訪ね、山頂に建つ荘厳な姿に感動しました。また屋島から見下ろす瀬戸内海は素晴らしい眺めでした。
<偕行社コンサート会場>
2日目は石垣の美を誇る「丸亀城」を見学した後、善通寺市内にある「偕行社」で開催されるピアノコンサートに参りました。偕行社とは明治初期に陸軍将校の社交場として創立された洋風の建物ですが、そのイベントホールにて丸亀が生んだ名ピアニスト『田村真穂さん』が弾き語るスペイン舞曲/スペイン組曲にジックリと浸っておりました。
その偕行社の近くにある四国霊場第76番札所「金倉寺(こんぞうじ)」を訪ねてまたまた驚きました。学生時代に歴史で学んだあの真言宗の開祖と言われる弘法大師・空海がこの地「讃岐」で生まれたことを知ったのです。
<金丸座>
3日目は「金刀比羅宮」を参拝し、その門前町中にある芝居小屋「金丸座」を訪ねてその豪華さに驚きました。しかし今や年に1回桜の時期に歌舞伎公演が行われるだけになったとの事で寂しい気がします。それも火災などの安全性を考えるとそう簡単には公演ができないことが理由だそうです。そして昼は田村真穂さんの案内で「うどん」の“はしご”をしました。1軒目が「谷川米穀店」(伊多郡まんのう町)でかけうどんに生卵をいれて食べる実にシンプルな味で、狭い店のせいか行列待ちの盛況でした。
<谷川米穀店>
そして2軒目は「宇多階(うぶしな)神社」(綾花郡宇多津町)が経営している店名「うぶしな」で、ここはかけうどんに自分で“てんぷら”や“あげだま”などの具を選んで入れてたべる方式でしたが、月曜日だと言うのにどちらの「うどん店」も混み合っておりました。
それにしても今回の旅は目に、耳に、そして味と、十分に五感を満足させる旅でございました。
<屋島から瀬戸内海を望む>