2015年8月1日土曜日

老人会ウォーキングと樋口一葉

7月25日(土曜)地元老人会にて「樋口一葉ゆかりの地を訪ねて」というテーマでウォーキングを実施した。参加者はなんと19人。この催しの目的は、我々は「本郷田町」に住んでいるのだから、この地が生んだ悲劇の美女「樋口一葉」について知る事と、健康維持のための地元での軽いウォーッキング、そして土用の丑の日の翌日に当たるので「うなぎ」を食べて体力をつけよう、という「学ぶ、歩く、食べる」がセットされた企画なのだ。「学ぶ段」では文京区の集会場を使って、私が「樋口一葉の生涯」について約1時間スピーチをし、「歩く段」では一葉ゆかりの地ということで、「一葉終焉の地」→「右京山・清和公園」→「一葉旧居跡」→「伊勢屋質店」→「一葉桜木の宿跡」の行程をゆっくりゆっくり2時間ほどで歩いて、午後1時に「食べる段」として真砂町の鰻屋「鮒兼」にて昼食をとるというスケジュールである。
<参加の皆さんが極暑の中をウォーク>
しかし朝からギラギラの真夏日で気温がガンガンと上がり、歩き始める前に30度を超えていた。高齢者の健康を考えると無理な行動は禁物と判断し、ウォーッキング行程を半分以下に短縮、しかし鰻屋の予約時間を早めることは書き入れ時なのでと断られており、止むを得ず「学ぶ段」の時間を延ばすことで調整した。しかしスピーチを2時間に広げるのは大変なことだったが、次のような内容の話をして何とか時間のつじつまを合わせた。
まずは一葉の両親”大吉とあやめ”が山梨県塩山市から駆け落ちをして江戸へ出てくる話から始め、一葉の気が強い性格はチャント親譲りなのかもしれないとお話した。そして次に一葉の儚い24年の生涯を”4つの時代”に分けてお話をした。1872年5月2日、一葉は内幸町で生まれ(二男三女の次女で4番目 本名:樋口奈津)14歳ころまでは家族円満で「幸せな時代」であったが、15~20歳の時代は本郷菊坂下道に住んで居り、兄そして父を続けて失い悲しみの中で、一葉は女戸主として家計を背負い、お金を稼ぐには「小説家」がいいと「半井桃水」に文章構成の手法を学び始める。しかし師匠の桃水と恋に落ち入り悶々とした「苦しい時代」であった。
<菊坂下道・一葉旧居前の路地>小生の油絵(未完)
そして21~22歳の時代は桃水と別れることを決意し、吉原遊郭のそばの下谷竜泉寺町に引っ越し「駄菓子屋」を開くも事業に失敗してしまう。しかし駄菓子屋での子供相手を題材にした「たけくらべ」が雑誌「文学界」で連載が始まる。お店をたたみ、いかがわしい酌婦街の賃宿に引っ越して娼婦の代書屋をしながら小説を書いたこの時代を「一葉の塵の中での闘いの時代」と言われる。そして23~24歳の時代は、小説家で身を立てようと本郷丸山福山町(現在の西片)に移住し、作品「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」などを書き上げ「一葉文学開花の時代」と言われるが、その期間も短く1896年11月23日に24歳の若さで夭折する。

たった24年の人生だったが、その120年後、彼女の像が誰もの財布の中に有るというその偉大さ!一葉はその短い生涯で15回もの引っ越しを繰り返していたが、我々が住んでいるこの地「本郷」が大好きだと言っていたという。私のスピーチも「このすばらしい本郷田町(現在は西片)に住んでいることを誇りに思おう!」と言って終わりにした。

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