2019年5月13日月曜日

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今年のGWは10連休。この機会を利用して私のHPを新デザインに作り変えました。

従いまして 新HP(New  Kaz's  Collection)は下記のURLをクリック下さい。  

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   kazum.net/wp/new-kaz-collection/blog/

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以上(2019・5・12)


2019年4月25日木曜日

「平成」とは何だった?


後5日で「平成」は終わる。天皇陛下が「平成は戦争がない平和な時代でした」と述べられていたが本当に平和だったか?
明治は日清・日露戦争、大正は第一次世界大戦、そして昭和には太平洋戦争と人間同士が武器を持って殺し合う戦いは確かに「平成」の30年間には無かった。しかし新しい資本力で市場(地面ではなく)を取り合う戦い、所謂「経済戦争」で大敗した。平成に入った頃は企業世界ランキングでトップ20の内14を日本企業で占めていたが、平成が終わる頃にはトップ50に1社(トヨタ)しか無いという哀れさである。また平成に入る前からすでに「気候異常現象」は出ていたが、ボケッとしていて平成10年に遅ればせながら気象庁が「地球の温暖化」を認めた。地震大国「日本」なのに、その地上に原子力発電所を作って野鯖っている電力会社、神様は東日本大震災を起こして日本に気が付かせようとしたが、今も気が付かないふりして(再稼働に躍起となって)「令和」を迎える。天皇は自分から何も言えないので、ただただ各地の被災者にいち早く会いにゆき励ますしか道はない。実は天皇も日本の愚かさを知っているのだろう。「令和」はその我らが続けてきた愚かさから起きる反作用つまり「災い」を一つひとつ乗り切って行く辛いつらい時代であろうか。寺田寅彦よ、「災いは忘れた頃にやって来る」のだよね。(写真はネットから拝借)

2019年4月22日月曜日

根津神社『つつじまつり』


今年が丁度第50回目の根津神社『つつじまつり』をワイフと散歩がてらに行って参りました。今までにも何度と無くこの「まつり」に来た記憶は有るのですが、最高のタイミングに来たのは今日が初めてのように感じました。それほど色鮮やかに斜面が染まっておりました。そもそもはこの地が甲府宰相であった「徳川綱重」の下屋敷で有った時にツツジを植えたのが始まりで350年以上の歴史が有るそうです。約100種3000株が咲き誇っているそうですが、世相がこんなに暗っぽい時に、植物は何事も無いように美しく咲いてくれておりました。今日はいろいろな「赤」をジックリと堪能出来て幸せなひと時でした。


2019年4月16日火曜日

もう忘れたか? 原発の脅威


今日本は選挙カーが走り回る騒音の中にいる。いよいよ「統一地方選」がスタート、今度の日曜21日が投開票の日だ。原発脅威の県、福井県敦賀市の市長選でも「原発」に就いては議論を避けているという。理由は原発関係で働いている人々の票を意識している為という。
今日の新聞を開くと「福島第一3号機の核燃料取り出し作業開始」と記事が出ているが556本有る内で昨日4本を搬出し、完了は何と2年後の2021年3月予定という。まだ1号機には使用済燃料棒が392本、2号機には615本あり、これらの棒を引きずり出すのは2023年ころよりスタートという。この事だけでも私の生きている間には作業が終わりそうもない。それ以外にメルトタウンしたデブリは手付かずだがこれは一体どうするのか?どうなってしまうのか?どうやら私達の次の世代にお任せの結果となってしまったようだ。申し訳ない。
私は長崎生まれでもないのに「長崎楽会」に入会して10年近くになろうとしている。先月会員の方から分厚い本をお借りした。題名は「文明開化は長崎から」広瀬隆著 上/下2巻で読み切る為の借用期間は2年である。広瀬隆氏と言えば「東日本大震災」(2011・3・11)の1年前に「原子炉時限爆弾」という題名で出版した人物で、私は現在この2冊を並行読みしている。
「文明開化は長崎から」(初版2014年11月)の中で次のように書いた部分がある(上/P68)。『ポルトガル人 ルイス・フロイスが書いた「日本史」の中で1586年に起こった天正大地震における若狭湾(福井県)の大津波について、「大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海にのみこまれてしまった」と記述していた。にもかかわらず「この海岸線には津波は来ない」と軽佻浮薄の昼行灯揃いの電力会社のため、大津波到来を待つ若狭湾岸に14基が林立し、一触即発の日本となっているのが現在だ。』
2010年8月第1版の「原子炉時限爆弾」P69に次の記述がある。「実はこの最終原稿を書いている最中の2010年6月17日に、東京電力の福島第一原子力発電所二号機で、電源喪失事故が起こり、あわやメルトダウンに突入かという重大事故が発生したのだ。日本のマスコミは、20年前であれば、すべての新聞とテレビが大々的に報道しただろうが、この時には南アフリカのワールドカップ一色で、報道陣として国民を守る責務を放棄して、この深刻な事故についてほとんど無報道だった。」しかしこの本の7ヶ月後に本当に福島第一原発でその通りメルトダウン事故が起きた。そして現在その後始末すら出来ずに、原発を再稼働しようと粉骨努力している政府/電力会社とは、一体何を考えているのだろうか。つまりはただただ国(最悪は地球)が壊れる日をジット待っているのだろうか。自分の生きている間は起きないことを信じながらーーーー。

2019年4月5日金曜日

桜の中で「縄文時代」を楽しむ

<水子貝塚公園・白い丸の所は貝塚の発見位置>

<諏訪神社と桜>

つい4日まえに利根川沿いの水運の町「木下(きおろし)」を訪ね古代の「貝層」を見てきたばかりなのに、今回(4/3)は「貝塚」が大量に発見された富士見市を探索する機会に恵まれたとはビックリでした。

友人が『武蔵七党の【難波田城址】と縄文遺跡【水子貝塚】を訪ねる企画』を組んでくれたのです。
<氷川神社の湧き水>
スタートは東上線の「鶴瀬駅」で我が家からわずか40分ほどで着きます。朝から最高の天気で鶴瀬駅前の桜も5~6分咲きでしたが最高のお出迎えでした。
ウォーキングコースは まず「諏訪神社」からですが、この神社は大変古いそうで創立年が不明だが境内の欅は樹齢500年ですから古い神社でしょう。本殿を屏う大きな桜木も美しかったです。つぎは隣にある「氷川神社」へ。境内の一部が窪地になっていて木々が生い茂っていますが、下には「弁天池」があり湧き水が今も枯れること無く出ている姿をみて実に感動しました。
<難波田城址>

次に国道245号線沿いにある「ららぽーと・富士見」の巨大なショッピングモールの中で早昼食をとりました。食後暫く歩いて「難波田(なんばた)城址」に到着。中世の地元豪族「難波田氏」による平城だが、お堀や庭レイアウトや旧家がしっかりと保存されていてすばらしい。

<新河岸川と桜>
その後はしばらく「新河岸川の土手」を歩きましたが、土手の桜は満開にはチョイトは早かったでしたが誰も居ない静けさの中でのお花見は最高でした。そして次は高台に有る「大應寺」(真言宗)。この寺も創立は不明なるも古いのは確かで、本殿は平成21年に建て替えらたのですが、これがまた巨大でかつ荘厳で「おみごと」の一言。門前の桜参道もすばらしい。最後はすぐ正面にある「水子貝塚公園」に入り「資料館」では縄文時代の生活を学ぶことができました。
<大應寺参道の桜>
4日前に行った利根川沿いの「木下」は【縄文海進】の時には海の底だったが、ここ富士見市は武蔵野台地の北東縁に位置して海岸沿いだったので、この辺に縄文人が集落を作って生活していたわけです。私は、何となく自分の遠き故郷の空気を心の中で感じていたのです。


2019年4月1日月曜日

激寒の中での「木下・川めぐり」


<「木下(きおろし)交流の杜広場」から利根川上流を眺める

3月30日(土)NPO法人【江戸連】3月講として、利根川沿い印西市の「木下(きおろし)」へ河岸探訪に行って参りました。春のポカポカ陽気の中での「川めぐり」と利根川土手歩きを期待していたのですが、なんとなんと、手賀川と弁天川をぐるり回る船旅は体をブルブル震わせておりました。
<土手をブルブル震えながら>
この付近は江戸時代には利根川水系を利用して年貢米を江戸に届ける目的で水運が利用され、次第に沢山の河岸が作られ江戸へ海産物(生魚)、野菜、塩、材木などの輸送が盛んになり、明治に入ると沢山の蒸気船が航行していたそうです。「木下」には蒸気船の持ち主となった「吉岡家」が居りこの辺一帯の実力者として勢力を広げていたそうですが、しかし水運事業は、その後の鉄道や道路の発達により一瞬にして衰退してしまい、吉岡家も同様に煽りを受けて運輸業から撤退してしまったそうです。
<貝層貝化石灯籠>
数万年前はそもそもこの辺一帯は海の底であったそうですが、その証拠として「貝層」を見ることができました。「貝層」とは海底の貝が粘土層に挟まれてそのまま貝の層として残ったもので、「貝塚」は古代人が食した後捨てた貝殻の集まりが層をなしたものを言うので違うものだそうです。貝層の見える崖を探索し、その貝層で作った灯籠も見ることが出来ました。
大変に興味ある地域ですが今日は余りにも寒すぎたので、また陽気が良い時にでももう一度ゆっくりと訪ねてみたいと思いました。
<舟めぐり・手賀川のコブハクチョウの群れ>


2019年3月28日木曜日

バブル崩壊からの敗戦を迎えた


1997年3月「日経新聞」が『2020年からの警鐘』の小冊子を発刊していました。これは1997年1月1日から始めた記事「日本が消える」のシリーズ物を纏めたものです。この記事のタイトルが余りにショッキングだったとして当時各界で注目されたとこの小冊子の「はじめに」の所で書いていますが、2020年を来年に控えて今この小冊子の中を読み直してみると、なにもショッキングではなく、その通りの結果になってしまい、日本が誇りにしていたものを全て失ってしまいました。一言で言えば「日本はこれからどこに行こうとしているのかを、誰も言えないし分からない」という哀れな姿です。
日本文化の素晴らしさを日本人より外国人が理解し、日本の「匠」の技術力を大事にせず結果として失ってしまい、自然との共生が日本人の魂だったのに自然をぶち壊す人間に成り下がっています。国会とは国民を代表して国を導く機関なのに手前勝手でウソもまかり通る組織体にしてしまい、日本人の日本憲法に作り変える必要性を変な理屈付けで「憲法改正」理論をぶちまけ、日本は精神面から見ると完全に姿を失って消えてしまったのです。『2020年からの警鐘』の「改革こわれ破局へ」の項で次のように書いています。「思い切った改革が出来ず、歴史が繰り返すとすれば、バブル崩壊から25年後の2020年ころ日本は”次の敗戦”を迎える。」これが1997年の段階での”警鐘”だったのですが、全くそのとおり敗戦を迎えてしまいました。
しかし希望が全く無い訳ではなく、”歴史は繰り返す”のだとすれば、また「生きがえり」が始まるのです。きっと市民の一人ひとりの考えが少しずつ変わりながら、それも小さい集団が細胞のようにビッシリと集まった「寄り合い型」の社会が生まれ始めて行くのでしょう それが「新元号」の始まりなのかも知れませんね。