2015年8月14日金曜日

東京都に森はどの位あるの?

<東京の西、多摩の山々>
こんな事を考えてみた事はありますか? 私は「今や東京都には殆ど森らしい森は無かろう」と思っていたのですが。 実は先日、私の通っている専門学校に「東京都森林組合」の方が訪ねて来たのです。「えっ!東京都に“森林組合”?」とピンと来なかったのです。彼らの訪問理由は多摩市にある我がグループの「認定こども園」に東京都の支援で「多摩産材」で作った木製遊具を設置する為の打合せだったのです。しかしこの会議で私はいろいろ知ることが出来ました。
<多摩産材で作った遊具>
ところで東京都にはどれほどの「森林」があると思いますか? 何と東京都の面積の40%が森林だそうです。その7割が多摩地域西部に偏在し、その4分の3が私有林だそうです。そして昭和35年には2000人を超えていた林業従事者も平成17年には200人ほどに激減し、51歳以上が全体の約6割だそうです。
この林業従事者が激減した原因は、昭和48年頃からの輸入木材による低価格化で林業の採算性が著しく悪化し、廃業に追いやられるケースが多発し、伐採する人も居なくなり、山は放ったらかしにしたままで、20年以下の若い森林は極端に少なく、高齢杉林からのスギ花粉飛散量の増大や、二酸化炭素吸引能力の低下が大問題となっている訳です。現在議論されている「TPP問題」も余りに経済を重視し過ぎて、第1次産業を守る事の重要性をないがしろにはしていないでしょうか。不安が募ります。
<人の手が掛かっていない滅びゆく山道>
さて「多摩産材」の話ですが、これは多摩でとれた木材に「産地証明」を付けて都内の保育園向け遊具として、あるいは多摩材を使った家づくりには都が「優遇融資制度」を付けるなど、林業の復活に努めているようで、林業従事者も平成22年には400名近くまで増加したそうで、これは大変にうれしい話です。

そこで「森林」に関連した日本人として反省せねばならない別の話をしましょう。それはスーパーやコンビニに山のように積まれたあの「コピー用紙」に就いてです。日本は中国に次いで世界2番目にインドネシアから木材を含む林産物を輸入しています。日本で流通しているコピー用紙の3枚に1枚はインドネシアから輸入したものです。と言う事は日本がインドネシアの熱帯雨林破壊や地域住民との紛争に深く関わっていることになります。
更に問題なのはこの紙製品だけでは無く、チョコレートやスナック菓子、洗剤や化粧品類に使用されている「パーム油」(日本では「植物油脂」と表示されている)も自然環境破壊に関係し且つ児童労働や強制労働に結び付く社会的問題を引き起こしているのです。

これらの問題は日本の「最終ブランド企業」の責任も大きいとは思いますが、まずは消費者の私たち一人ひとりが、「安ければいい」だけで買い込むので無く、製品が作られる背景を知り、自然資源の持続可能性に注意して生産している企業の製品かどうかをチェックしながら購入する行動が求められているのではないでしょうか。
<こんな生き生きした森林で山を埋め尽くしたい>

2015年8月1日土曜日

老人会ウォーキングと樋口一葉

7月25日(土曜)地元老人会にて「樋口一葉ゆかりの地を訪ねて」というテーマでウォーキングを実施した。参加者はなんと19人。この催しの目的は、我々は「本郷田町」に住んでいるのだから、この地が生んだ悲劇の美女「樋口一葉」について知る事と、健康維持のための地元での軽いウォーッキング、そして土用の丑の日の翌日に当たるので「うなぎ」を食べて体力をつけよう、という「学ぶ、歩く、食べる」がセットされた企画なのだ。「学ぶ段」では文京区の集会場を使って、私が「樋口一葉の生涯」について約1時間スピーチをし、「歩く段」では一葉ゆかりの地ということで、「一葉終焉の地」→「右京山・清和公園」→「一葉旧居跡」→「伊勢屋質店」→「一葉桜木の宿跡」の行程をゆっくりゆっくり2時間ほどで歩いて、午後1時に「食べる段」として真砂町の鰻屋「鮒兼」にて昼食をとるというスケジュールである。
<参加の皆さんが極暑の中をウォーク>
しかし朝からギラギラの真夏日で気温がガンガンと上がり、歩き始める前に30度を超えていた。高齢者の健康を考えると無理な行動は禁物と判断し、ウォーッキング行程を半分以下に短縮、しかし鰻屋の予約時間を早めることは書き入れ時なのでと断られており、止むを得ず「学ぶ段」の時間を延ばすことで調整した。しかしスピーチを2時間に広げるのは大変なことだったが、次のような内容の話をして何とか時間のつじつまを合わせた。
まずは一葉の両親”大吉とあやめ”が山梨県塩山市から駆け落ちをして江戸へ出てくる話から始め、一葉の気が強い性格はチャント親譲りなのかもしれないとお話した。そして次に一葉の儚い24年の生涯を”4つの時代”に分けてお話をした。1872年5月2日、一葉は内幸町で生まれ(二男三女の次女で4番目 本名:樋口奈津)14歳ころまでは家族円満で「幸せな時代」であったが、15~20歳の時代は本郷菊坂下道に住んで居り、兄そして父を続けて失い悲しみの中で、一葉は女戸主として家計を背負い、お金を稼ぐには「小説家」がいいと「半井桃水」に文章構成の手法を学び始める。しかし師匠の桃水と恋に落ち入り悶々とした「苦しい時代」であった。
<菊坂下道・一葉旧居前の路地>小生の油絵(未完)
そして21~22歳の時代は桃水と別れることを決意し、吉原遊郭のそばの下谷竜泉寺町に引っ越し「駄菓子屋」を開くも事業に失敗してしまう。しかし駄菓子屋での子供相手を題材にした「たけくらべ」が雑誌「文学界」で連載が始まる。お店をたたみ、いかがわしい酌婦街の賃宿に引っ越して娼婦の代書屋をしながら小説を書いたこの時代を「一葉の塵の中での闘いの時代」と言われる。そして23~24歳の時代は、小説家で身を立てようと本郷丸山福山町(現在の西片)に移住し、作品「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」などを書き上げ「一葉文学開花の時代」と言われるが、その期間も短く1896年11月23日に24歳の若さで夭折する。

たった24年の人生だったが、その120年後、彼女の像が誰もの財布の中に有るというその偉大さ!一葉はその短い生涯で15回もの引っ越しを繰り返していたが、我々が住んでいるこの地「本郷」が大好きだと言っていたという。私のスピーチも「このすばらしい本郷田町(現在は西片)に住んでいることを誇りに思おう!」と言って終わりにした。