2019年3月28日木曜日

バブル崩壊からの敗戦を迎えた


1997年3月「日経新聞」が『2020年からの警鐘』の小冊子を発刊していました。これは1997年1月1日から始めた記事「日本が消える」のシリーズ物を纏めたものです。この記事のタイトルが余りにショッキングだったとして当時各界で注目されたとこの小冊子の「はじめに」の所で書いていますが、2020年を来年に控えて今この小冊子の中を読み直してみると、なにもショッキングではなく、その通りの結果になってしまい、日本が誇りにしていたものを全て失ってしまいました。一言で言えば「日本はこれからどこに行こうとしているのかを、誰も言えないし分からない」という哀れな姿です。
日本文化の素晴らしさを日本人より外国人が理解し、日本の「匠」の技術力を大事にせず結果として失ってしまい、自然との共生が日本人の魂だったのに自然をぶち壊す人間に成り下がっています。国会とは国民を代表して国を導く機関なのに手前勝手でウソもまかり通る組織体にしてしまい、日本人の日本憲法に作り変える必要性を変な理屈付けで「憲法改正」理論をぶちまけ、日本は精神面から見ると完全に姿を失って消えてしまったのです。『2020年からの警鐘』の「改革こわれ破局へ」の項で次のように書いています。「思い切った改革が出来ず、歴史が繰り返すとすれば、バブル崩壊から25年後の2020年ころ日本は”次の敗戦”を迎える。」これが1997年の段階での”警鐘”だったのですが、全くそのとおり敗戦を迎えてしまいました。
しかし希望が全く無い訳ではなく、”歴史は繰り返す”のだとすれば、また「生きがえり」が始まるのです。きっと市民の一人ひとりの考えが少しずつ変わりながら、それも小さい集団が細胞のようにビッシリと集まった「寄り合い型」の社会が生まれ始めて行くのでしょう それが「新元号」の始まりなのかも知れませんね。

2019年3月24日日曜日

【木津かおり】さんのシークレットライブ


3月22日渋谷の公園通り「クラシックス」で開催された『木津かおりとTHE民謡』に行って参りました。久々に渋谷スクランブル交差点を通った私め「ジイサン」はその熱気と雑踏に押し殺されそうに感じました。
木津かおりさんのライブは東京山手教会の地下「クラシックス」で行われましたが、かおりさんのベレー帽はとっても似合っていて可愛かったです。パーカッションの岡部洋一さんとバイオリンの大田恵資さんとのコラボは、それぞれ音のプロ3人なので「THE民謡」はいつもいつも”音色の最高作品”として聞き惚れてしまうのです。お母様の四十九日という日に、かおりさん本当にご苦労さま、そしてありがとう!

2019年3月20日水曜日

【江戸六地蔵めぐり】サイクリング


<荒川区役所前の広場でのどかな昼休みの風景>
<品川寺>

この所毎日最高の天気が続きます。そこで今日(3/19)は、じっとしておられず愛車(我が自転車ロールスロイス)を倉庫から引っ張り出して外に飛び出し【江戸六地蔵】を巡って参りました。この六地蔵は宝永5年(1708)江戸深川の地蔵坊「正元」が江戸庶民から寄進を募り10年掛けて造立した地蔵菩薩で江戸の六街道の出入り口に安置されています。
自宅出発が朝6時、まずは国道1号線~15号線で南下して品川に向かいます。7:15に旧東海道沿にある「品川寺(ほんせんじ)」に到着。(京浜急行「青物横丁駅」の裏)
<太宗寺>
次は戻るように北上して高輪2丁目を左に折れて八芳園の角に出て左に折れ、外苑西通りを右折してひたすら北上し、青山斎場の左側を抜け、2020東京オリンピックの建設中建物の脇を通り新宿御苑を目指します。2番目の甲州街道沿の「太宗寺」に10:10到着。(地下鉄「新宿御苑前」駅から近い)
三番目は「おばあちゃんの原宿」と言われる巣鴨お地蔵さんの側にある「眞性寺」で中山道の出入り口に当たります。太宗寺からは、明治通りに出て北進し目白通りを右折し、不忍通りを左折して護国寺を通過して白山通り(国道17号線)に出て巣鴨へ。眞性寺へは11:30着。
<眞性寺>
四番目は浅草・吉原の側にある「東禅寺」。旧奥州街道はここを通っていたらしい。巣鴨から17号線を北に向かい西巣鴨で交差する明治通りを右折して飛鳥山から王子駅前を通過、その先の溝田橋交差点を右折、明治通りを南下して吉原大門の信号を左折、その先に東禅寺はあり13:05に到着。お彼岸のせいで沢山の献花がされておりました。
<東禅寺>
五番目は、江東区・深川の清澄公園の側の「霊厳寺」で水戸街道沿いに鎮座しています。東禅寺から千束通りを下り浅草に出たら国際通りから浅草通りを左折して「駒形橋」を渡ります。渡ってすぐの清澄通りを南下、清洲橋通りを突っ切ったらすぐの「深川江戸資料館」に向かって左折するとすぐ左側に霊厳寺が現れます。(地下鉄「清川白河」駅から近い)
最後六番目は「永代寺」が千葉街道沿いに有ったのですが、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となり、地蔵尊も川口の鋳物工場に払い下げされたそうです。
<霊厳寺>
地名の門前仲町は永代寺の門前だった事に由来するそうです。その跡地の側の「深川不動尊」に寄り、本日の【江戸六地蔵尊のサイクリング】を無事に完走出来たことを不動明王に手を合わせ感謝を込めて報告致しました。14:45全て終了、後は無事に我が家に戻るだけでしたが、途中「小名木川」に架かる「たかはし」のところで休憩を取った後、今度は隅田川を「清洲橋」で渡りながら、そびえ立つ「スカイツリー」を仰ぎ見て、そしてすぐそこの小名木川の河口にある芭蕉像がクッキリと見えました。自宅着は 15:45でした。
<深川不動尊>

2019年3月11日月曜日

今日の午後2時46分あなたは何をしていましたか?

<2011・5・16 早稲田大学・異業種研究会での発表>
そう、今日(3月11日)の午後2時46分、あなたは何をされておりましたか? 私の場合は、今日偶然にも8年前(2011年)の今日と全く同じ行動を取っていたのです。3・11の出来事に関してその年の5月に早稲田大学・異業種研究会での講演で「21世紀はこころの時代到来」をテーマに講演しましたが、その時の話のほんの一部分ですが;

<8年前の私>
『もうあの瞬間から2ヶ月以上も経った現在、私たち一人ひとりの“こころ”も実は少しづつ変って来ています。あの時は皆が「大変なことが起きた。どうしよう! どうしてあげよう!とにかく“がんばろう 日本!”」と“こころ”で叫ぶしか無かったのです。そして世界各国から「ガンバレ ニッポン!」のメッセージが届いたのです。このとき私は、世界中の人々と“こころ”が一つになった一瞬だと感じました。』
そしてその年の12月にエッセイ「日本復活私論」を書いておりました。このエッセイの中であの瞬間の私の行動を書きましたが、期せずして今日の私の行動は全くその日とほぼ同じ時間に同じジムで同じ内容のエクササイズを行っていたのです。巨大地震の瞬間の部分だけを書き出してみます。
『実はあの瞬間、私は週に1回ほど通っている東十条にある「スポーツジム」に居た。いつもお決まりの1時間半ほどの一連のエクササイズを終えて、最後にもう一汗とサウナに入って座り掛けた瞬間に、あの「グラ、グラ!」が来た。その時サウナの中には数人の人が居たが、皆さん【石原都知事の再出馬宣言】のニュースに見入っていた。
私は瞬間、「これがあの来るべきものの到来だ」と判断、汗が出る前に着替えした方がいいと思い慌ててサウナを出た。その時、サウナ内の人が、「何で入ってきてすぐに慌てて出るのか?」と言った不思議な顔で私を注視している姿が記憶に残っている。
サウナを出て風呂の脇を通る時、風呂の水がチャポン、チャポンと波打っているのが見えた。私は一目散にロッカールームに向かう。その時巨大な揺れが襲ってきた。沢山あるロッカーのそれぞれの中にある衣文掛けがロッカー扉をガチャン、ガチャンと叩きものすごい音を発している。サウナの中で汗を流してしまっていた人たち、そして石鹸を使って体を洗っていた人たちは、それを洗い落す行動が必要で、即座に外にでる訳には行かない。その点私はタイミング的にもラッキーであった。あまりの揺れとロッカーからの騒音で下着がスムースに着られない。
その時スピーカーから場内放送が流れる。「ただ今、大きな地震によりエレベーターが止まっています。皆さん慌てず非常階段を使って1階に非難してください。慌てないで行動してください」と叫んでいる。私が衣服を着てロッカールームを出ようとする頃、風呂内にいた人たちが慌てて飛び出してきてロッカールーム内が騒然となった。
この頃には揺れは治まっていた。1階に下りるとプールで泳いでいた連中が体にバスタオルを巻いて裸足で路上に飛び出してきていた。女性もバスタオルを体に巻いてその恐ろしさに路上でブルブルと震えている。何人かが携帯電話を繋ごうとしているようだが、「ダメだ、繋がらない」といって心配そうな顔をしている。
そこでピンと来た。「そうだ!自動車だ。カーラジオがある!」と急いで2階の駐車場に行って車のラジオを入れた瞬間にまた大きな揺れが来て、路上に居る皆が「キャーーー!」と悲鳴を上げている。そして電信柱の電線が大きく波打っていた。ラジオでの臨時ニュースでは「地震の震源地は宮城県・仙台の海上沖合いと推測されます。まだ大きな揺れが有るかも知れないので安全な場所に退避してください」と言った内容を繰り返していた。そこで周りにいる人々に「震源地は仙台の沖合いのようです」と伝えると、不思議なもので、皆さんも震源地を知り、そしてそれが離れた地である事を確認できた為か、チョットばかり安心した様子をしていた。
少し気持ちに余裕が生まれると、「我家は大丈夫か? 妻はどうしている?」と気になり始めた。すると直感的に「早くこの駐車場を出て家に向かった方がいい。暫くすると主要道路が緊急避難路として交通止めになるかも知れない」という考えが頭をよぎり、直ちに車のエンジンを掛けた。』

今日(2019年3月11日)、私は上述と全く同じ行動を取っていたのですが、ジムからの帰りの車の中で観るTVでは、どのチャンネルもあの日の追悼番組を報道しておりました。