2013年3月31日日曜日

江戸連・弥生講【旧中仙道・板橋宿から巣鴨村まで】

 
絵馬に引き付けられている皆さん

3月30日(土)なにか冬に舞い戻ったような冷たい北風が吹く寒い日、NPO法人「江戸連」の弥生講【旧中山道散歩】が開催されました。集合場所は三田線の「板橋本町」駅前で、みなさん寒さに震えながらの待ち合わせでした。それでも40名近い参加で歩行上の安全を考え2班に別けての午後1時スタート。 

最初の立ち寄り地は「縁切榎」。環七通りから旧中山道に入って緩い坂を下ると左に入る露地の角に榎が立っていますがその下に小さな祠が。その脇に「絵馬掛け」が在るのだが、その絵馬に書かれている縁切りに関した文面が生々しいのだ。「悪病との縁切り」、「不倫相手との縁切り」、「会社上司との問題で辞めたい!」そして「妻と別れたい!」などなど、内容に迫力が有るので皆さん覗き込んでニヤニヤしながらジックリと読んでいた。
  
旗持ちの係り
 江戸連の史跡散歩の際は、「旗持ち係」がいるのだが、今回は欠席されたので私が代行した。旗を持っている写真は桜満開の「智清寺」での一コマである。この後石神井川に出て川に沿った桜並木を楽しみながら旧中山道に向かう。
 旧中山道が石神井川を渡るところが「板橋」になる。この板橋は木製で歌川広重の浮世絵や長谷川雪旦の「江戸名所図会」でも緩やかな太鼓橋だったことがわかる。この板橋は江戸・日本橋から二里二十五町三十三間だそうで1里が凡そ4km、1町が凡そ100m、1間が凡そ2mとすれば日本橋から約10kmの距離にある最初の宿場町である。
「板橋宿」は3つの宿場が一緒になっており、日本橋方向からまず「平尾宿」、次が「本陣」「脇本陣」がある最も賑やかな「仲宿」、そして板橋を渡った先に「上宿」が繫がっていて全長1.5kmほどの大きな宿場町であったという。この日の「板橋」の袂は写真のように満開の桜木に覆われ、この週末が桜の今年最後のチャンスらしいので、我々は本当にタイミングが良かったことになる。

満開の板橋

「平尾宿」にある「東光寺」の境内からは、私の出身高校「北園高校」の時計台が見えた時には、昔が懐かしく思い出されて何とも言えない気分になってしまった。 そして北園高校は22万坪もあった広大な加賀藩下屋敷の敷地内の一角に建っている事を知った。

遠くに北園高校の時計台
 JR赤羽線の「板橋駅」の踏切を突っ切り「平尾一里塚」を通過し、次は「新撰組隊士供養塔」に到着。明治元年4月4日、近藤勇が流山で捕らえられ、4月25日この地で処刑されたが、明治8年になって新撰組隊士だった「米倉新八」が新政府の許可を得て建立したと言う。今でも新撰組ファンが引っ切り無しに訪ねて来るらしく、何か異様な“気”が感じられた。
ここから巣鴨「とげぬき地蔵」までのおよそ6kmは、江戸時代には「種屋街道」といわれ、タネ問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並んでいたそうだ。その街道で現在も製造を続けている「亀の子タワシ(束子)」で有名な「元祖 西尾商店」の前を通過。同社は明治40年の発明から今年で創業105年を迎えるそうだ。今でも年間400万個を製造し、20カ国に輸出しているという。なんとも嬉しくなる話しではないか。
巣鴨庚申塚の都電の踏切を跨ぎ、「とげぬき地蔵」に到着した頃には周りは暗くなり始めていた。今日は何とも歩くには寒い一日だったが、満開の桜を満喫し、そして多くを学ぶ事が出来た有意義な一日だった。
新撰組隊士供養塔

亀の子束子「西尾商店」


2013年3月16日土曜日

“うだつ”と車窓民俗学

2年前に神保町の古本屋にて170円で購入した加藤秀俊著【車窓から見た日本】(発行:昭和46年)をもう一度とり出して読み始めた。その切っ掛けは「うだつ」という言葉だった。ある日の新聞記事に「うだつは防火壁。これを造るのには大変に費用が掛ったので、これを持った家屋は裕福の象徴であった」と言った内容が書かれていた。この「うだつ」で前述の本にも確か「うだつ」が出ていた事を思い出して再読しているのだ。この本は著者が文明の力「電車」に乗って、その車窓からぼんやりと外を見ていると、その景色から日本人の生活とその智慧が発見され、その発見をエッセイに纏めた本である。私も「電車」では無く自分の「足」で歩くのが好きで「塩の道」や「鯖街道」などを一人行脚してエッセイを書いているので、この著者とは共通項があるので私の好きな本の一つになっている。

特に印象に残っているのは、「谷間の人生」というエッセイの中の次の文章である。
『谷に入ったら、人はとにかく歩かねばならぬ。谷というのは、人家のある盆地と盆地をつなぐ一種の空白地帯みたいなものだ。谷あいの道はただ歩く為にある。途中で腰を落ち着けてしまうことは出来ない。それは人間世界を離れた純粋な「道」である。そこを歩くのは純粋な「旅」である。そこでは、人は他人に甘えることは出来ない。他人を頼ることが出来ない。なぜなら、谷は人間世界と切れたプロセスだからだ。それは歩く為にある。』
私も一人行脚をしていて、何度と無くそんな体験を重ねてきた事だろう。山と山の間の谷は確かに人間界から離れた霊験あらたかな世界だ。そして頼るものが無いだけに、気を許せない危険な道程とも言えよう。

このエッセイ「谷間の人生」は名古屋から富山に向かう「高山本線」に沿っての車窓からの人間生活を観察しているのだが、下麻生付近を通過中に車窓から「うだつ」のあがった古い商家を見つけた。彼が言うには、昔の上方商家では、借家でない自分の所有する一人前の店を構えたとき、隣家と接する屋根の隅にカワラぶきの塀のごときものをつけたそうだ。それが「うだつ」と言うもので「宇立」とも書くという。なるほど、「うだつ」とは人間の欲望を果たした姿だったのだ。今となっては団地住いやらなにやらで、うだつの上がらない人ばかりということになるのだが。(尚上の「うだつ」の写真はWeb上の写真を使わせて頂きました。深謝)