2014年6月3日火曜日

徳川家康と塩の道

<隅田川からスカイツリー>
5月24日()、NPO「江戸連」の5月講「小名木川遊覧」に参加した。まだ5月だと言うのに真夏を思わせるような強烈な太陽光線が干しあがったアスファルトを更に焼き付けていた。集合場所は何と日本橋の袂で、こんな所に船着場が有るのを初めて知った。
日本橋をすっぽり覆うように走る首都高が日本橋川を薄暗くしている。こんなに太陽光が強烈な日には首都高が日傘のような役をしてくれて好都合だが、最近では景観を乱しているとして評判が悪い。
<真っ直ぐの小名木川>
<広重【中川口】>
いよいよ艀のような船は我々を乗せて隅田川に向けて走りだした。すぐに首都高は北の箱崎方面に向かって日本橋川から離れ、笠がなくなった船上で我々はあの強烈な太陽光に晒され続けた。隅田川に出ると暫く川上に向かい清洲橋を過ぎてすぐの芭蕉庵跡庭園の角から右手の人工運河「小名木川」に入った。この水路は徳川家康が、幕府直轄地とした「行徳」の塩を江戸へ輸送するために開削を命じたもので、1590年ころ小名木四郎兵衛によって隅田川から東に旧中川へ一直線に凡そ9kmを開削した。旧中川はすぐに荒川に合流し、その対岸から更に東に運河「新川」が作られ行徳の塩田が拡がる旧江戸川まで開削され、1629年遂に江戸川~江戸間(全15km)の水路が完成した。つまり小名木川は、行徳の塩を江戸に運んだ水路「塩の道」だったのである。小名木川が旧中川に出る附近は荒川そして新川が交差していて四方に行き交う船で賑わっていたらしい。その光景を歌川広重は「江戸名所百景」の中で【中川口】として描いている。
<「おこよ」の松とその説明版>
「家康」と「塩の道」の関係で私は全く別のことを思い出していた。そう,あれは今から9年前の2005年、私が静岡県・相良町から新潟県・糸魚川までの350km一人行脚をスタートした三日目の出来事だった。静岡県・森町から秋葉大社に向かって「秋葉街道」を三倉川に沿って北進していると、道脇に横に腕を伸ばしたような形をした松に出会った。その手前の説明版によれば、
<広重【掛川・秋葉道】>
『1574年 家康が武田方の天野氏の【犬居城】攻めの折に天候急変の災いで軍を撤収する途中、天野軍の反撃を受けて徳川方は思わぬ惨敗を喫してしまう。その時、この土地の嫁であった「おこよ」が現われ徳川方武士を山道案内して逃がしてやった。しかしその事を知った天野軍は「おこよ」を厳しく折檻し、「おこよ」はそれに耐えられずに命を絶ってしまった。土地の人々はこの「おこよ」の死を悼み、そこを「嫁田」と呼び弁天様を祀り、その脇の松を「おこよの松」と呼んでいる』と書かれていた。
何とこれも「家康」と「塩の道」が関連した話である。もし家康がこの山奥で「おこよ」に会わなかったら日本の歴史は大きく変わっていたのかも知れない。
そしてこの「おこよの松」の側を流れる三倉川はくねくねと曲がっており大雨が降ると橋がしばしば流されて秋葉街道を行く旅人が川中を歩かねばならない不便さが有ったという。広重は「五十三次名所図会」で【掛川・秋葉道】として往生している旅人の姿を描いている。この絵のバックに聳え立つ山が「秋葉山」である。

「家康」と「塩の道」が関係した2つのお話に「広重」の浮世絵の絡みは如何なもんでございましたでしょうか。
<左の隅田川から真横に真っ直ぐ旧中川まで走る「小名木川」>

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