2015年5月9日土曜日

【神田川・都心部】ひとり歩き

2年前の2013年10月14日『体育の日』に【神田川上流部(井の頭池〜環七通り「方南橋」まで)】を歩き、その行程録を10月20日のブログに書きました。しかし残りの部分【都心部(方南橋〜隅田川まで)】の「ひとり歩き」が出来ずに気になっていたのです。このゴルデンウィークは快晴の日が続いたので、よしこの機会にと、遂に5月4日『みどりの日』に念願が叶ったのです。
<栄橋の向こうに地下鉄・丸の内線の車両が>
朝7時半に家を出発、まずは地下鉄・大江戸線の春日駅から都庁前駅で乗り継ぎ中野坂上駅で丸の内線に乗り換え方南町駅へ出ます。地上に出てすぐにコンビニで朝食のおにぎりと飲み物を購入し、環七通りに沿ってしばし南下します。
すると神田川が環七通りと交差する「方南橋」に到着し、いよいよ“神田川ひとり歩き”のスタートです。(8:40)
<手前からの善福寺川が神田川に合流>
川はすぐに北上し「方南通り」に掛かっている「栄橋」に着きます。川の右側には丸の内線の車両がながめられますが(一番上の写真)、ここが「中野検車区」という車庫になっていて、地下鉄・丸ノ内線に中野坂上から方南町までの引込み線が有る理由がこれで分かりました。そしてすぐに「善福寺川」との合流点に着きます。この辺は川がコンクリートで固められており、その合流点の姿は余りにも寂しい感じがしました。(井の頭公園からここまで約10km)きっとここには魚も水辺の昆虫類も居ないのでしょう。
<中野新橋の赤い欄干>
丸の内線中野富士見町駅のそばの「富士見橋」から中野新橋駅のところの「新橋」までの700mは神田川に沿った道はありません。しかし「新橋」から先はまた神田川に沿って歩くことが出き、しばらく川に沿って整備された歩道を歩くと、道幅の広い「山手通り」に出ます。(9:50)ここを渡って川沿いの道は左側が中野区で「神田川四季の道」として、そして右側が新宿区で「やすらぎの散歩道」として、両サイド共に植栽などがきれいに手入れされており素晴らしい散歩道となっています。
<「やすらぎの散歩道にて>
これらの遊歩道は「川の管理道路」という名目だそうで、西武新宿線の上落合駅の近くの「瀧澤橋」まで続いています。この瀧澤橋からは一旦川から離れ「東京富士大学」入口前に出て「さかえ通り」商店街を通り抜け
JR「高田馬場」駅の傍に出て、ガードを潜ってすぐの交差点を左に折れて「神高橋」から再び川沿いを歩きます。すぐその先で「新目白通り」と「明治通り」の交差点に出ますが、そこで神田川は大きく90度右に方向を変えます。都電「荒川線」の線路を渡った先の「曙橋」から「江戸川橋」に至るまでの2Kmは、川の両サイドに桜の木々が生い茂っていて「江戸川公園」として桜の名所になっています。その途中「駒塚橋」の所にある「関口芭蕉庵」にて休憩、ひとり庭の中の東屋の縁台に腰を降ろして、風になびく木々のダンスを眺めながら緑陰を楽しみました。(11:30)
<関口芭蕉庵での一時>
この後は高層ビルの合間を縫って「大曲」で神田川も大きく右に曲がり「飯田橋」に出て今度は左にカーブして、「水道橋」の交差点に出て緩やかな「御茶ノ水坂」を登るとJR「御茶ノ水」駅前にでます。ここは学生の町なので相場が安く、ここで昼食をとる事にしました。(12:30)
<柳橋から屋形船群を>
この後神田川は若者の町と化した「秋葉原」を通過し、「浅草橋」に来ると川の両岸には屋形船や釣り船がずらりと繋留されていました。そして隅田川に出る手前の最後の橋が「柳橋」。 柳橋の名の謂れは8代将軍吉宗の命で南岸土手に柳が植えられ“柳原堤”と呼ばれたことによると言われますが、何と言っても江戸中期から昭和にかけて花柳界が大いに栄え“万八楼”や“亀清楼”などの名だたる料亭が流行っていた歓楽街であったそうですが、今はその面影が無いのが誠に残念です。隅田川の土手に出てみようと直進しますと、道は靖国通りに出てすぐに「両国橋」になります。橋の上からは正面に見える「スカイツリー」が真っ青な青空に突き刺さっておりました。これで「神田川ひとり歩き」“都会編”は無事に終了、時計を見ると丁度午後2時になっておりました。(26,963歩)
<両国橋からスカイツリー・正面の橋はJR総武線の鉄橋>
井の頭公園から流れ出し、最後は隅田川に流れ込む「神田川」全長およそ20Kmを今回で歩き切った事になり、大いに清々しい気分で家路に着きました。



2015年5月3日日曜日

GWと散歩

<太栄館の正面玄関>
今年のGWは天候に恵まれているようだ。5月2日(土)真っ青な空で清々しい朝を迎え、じっとしておられず外に飛び出した。私にとって近所の散歩は珍しいことではないが今回は何気なくカメラをポケットに入れた事もあり、「よし、新しい発見を探して行こう」と目標を定めた。我家を出て言問通りを突っ切り「新坂」と言う急勾配の細い坂を登り切った左手に日本旅館「太栄館」がある。そこで最初の驚きに直面。
<解体中の太栄館、道の左先が新坂>
何と歴史ある太栄館が解体されているではありませんか。この辺一帯は東大教授や学生の下宿屋や日本旅館が多く、旅館は昭和時代には「学生修学旅行の宿」として流行り、その後外国観光客の人気の的となったが、修学旅行は海外に行くようになり、最近の外国人観光客はもっと安い旅館がある浅草や山谷に流れて行ってしまい、そんな時代の変遷がいよいよ老舗日本旅館を店じまいさせたのだろうか。この太栄館は明治41年に「石川啄木」が北海道放浪の後上京して9ヶ月間投宿した。高台に建っているせいで、窓からは富士山が見えると啄木は大いに喜んだという。しかし宿代が支払えず、近所に住む「金田一京介」の世話で「蓋平館」(太栄館の旧称)の別館に移った。そんな歴史がある太栄館が無くなろうとしている。
<店じまいの「万定」>
<活躍した金銭登録機>
その道を真っ直ぐ行くと本郷通り(国道17号線)に出るが、その通りに出ると突き当たり右手に「東大正門」がある。その通りに出る角の左手で二つめの驚きに直面する。左手角は「万定(まんさだ)フルーツパーラー」なのだが、完全に店じまいしていた。きっと後継もおらずして静かに歴史を閉じたのであろうか。私も学生のころ、真夏の暑い日に冷たいフルーツジュースを飲んだ思い出がある。その時出口の支払いをする所に現役で働いていた古典的な”金銭登録機”が印象的だった。
東大正門から「安田講堂」前を通過して「三四郎池」の緑陰の中を歩く。新緑の間から射す木漏れ日とちょっと冷やっこい空気が気持ちを爽快にさせてくれる。
<静寂の三四郎池>
<弁慶鏡ケ井戸>
東大「不忍門」から外に出た所に「境稲荷神社」があるが、そこには「弁慶鏡ケ井戸」がある。今日のように時間に余裕のある散歩ではじっくりと案内説明板を読むことが出来た。説明板によれば、「境神社の”境”の意味」はこの付近が忍ケ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、そして「なぜこの地に弁慶が現れたのか」は、武蔵坊弁慶が義経一行と共に京を出て加賀の国を経て奥州に向かう途中でこの地を通過し、弁慶がこの井戸を発見し一行の喉をうるおしたという。そして昭和20年の「東京大空襲」の際にはこの井戸が被災者の飢渇から救ったという。
<朝の不忍池>
<麟祥院のお庭>
<春日局の墓・四方を見渡す丸穴が>
この後、不忍池をグルリと周り、無縁坂を上がって「麟祥院」に出る。なんといつもは門を閉じているのだが、今日は早朝から開いていた。麟祥院の庭園は非常に手入れがいいのであたかも京都に来ている錯覚に陥入ってしまう。墓地の奥手にある「春日局の墓」を訪ねてしっかりと手を合わせた。春日局は徳川3代将軍家光公の乳母で「大奥制度」を確立させた実力者だが、「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せるように墓を作って欲しい」との春日局の遺言により、墓石の四方に丸い穴が開いて世を見渡せるようにしてあるという。私が手を合わせた理由は、現在の政治も問題滞積であるので是非正しい方向に行くように丸い穴からじっくりと見守って欲しいとお祈りした訳だ。わずか1時間半、7000歩のブラブラ散歩だったが、沢山のことを発見した朝だった。