2015年5月3日日曜日

GWと散歩

<太栄館の正面玄関>
今年のGWは天候に恵まれているようだ。5月2日(土)真っ青な空で清々しい朝を迎え、じっとしておられず外に飛び出した。私にとって近所の散歩は珍しいことではないが今回は何気なくカメラをポケットに入れた事もあり、「よし、新しい発見を探して行こう」と目標を定めた。我家を出て言問通りを突っ切り「新坂」と言う急勾配の細い坂を登り切った左手に日本旅館「太栄館」がある。そこで最初の驚きに直面。
<解体中の太栄館、道の左先が新坂>
何と歴史ある太栄館が解体されているではありませんか。この辺一帯は東大教授や学生の下宿屋や日本旅館が多く、旅館は昭和時代には「学生修学旅行の宿」として流行り、その後外国観光客の人気の的となったが、修学旅行は海外に行くようになり、最近の外国人観光客はもっと安い旅館がある浅草や山谷に流れて行ってしまい、そんな時代の変遷がいよいよ老舗日本旅館を店じまいさせたのだろうか。この太栄館は明治41年に「石川啄木」が北海道放浪の後上京して9ヶ月間投宿した。高台に建っているせいで、窓からは富士山が見えると啄木は大いに喜んだという。しかし宿代が支払えず、近所に住む「金田一京介」の世話で「蓋平館」(太栄館の旧称)の別館に移った。そんな歴史がある太栄館が無くなろうとしている。
<店じまいの「万定」>
<活躍した金銭登録機>
その道を真っ直ぐ行くと本郷通り(国道17号線)に出るが、その通りに出ると突き当たり右手に「東大正門」がある。その通りに出る角の左手で二つめの驚きに直面する。左手角は「万定(まんさだ)フルーツパーラー」なのだが、完全に店じまいしていた。きっと後継もおらずして静かに歴史を閉じたのであろうか。私も学生のころ、真夏の暑い日に冷たいフルーツジュースを飲んだ思い出がある。その時出口の支払いをする所に現役で働いていた古典的な”金銭登録機”が印象的だった。
東大正門から「安田講堂」前を通過して「三四郎池」の緑陰の中を歩く。新緑の間から射す木漏れ日とちょっと冷やっこい空気が気持ちを爽快にさせてくれる。
<静寂の三四郎池>
<弁慶鏡ケ井戸>
東大「不忍門」から外に出た所に「境稲荷神社」があるが、そこには「弁慶鏡ケ井戸」がある。今日のように時間に余裕のある散歩ではじっくりと案内説明板を読むことが出来た。説明板によれば、「境神社の”境”の意味」はこの付近が忍ケ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、そして「なぜこの地に弁慶が現れたのか」は、武蔵坊弁慶が義経一行と共に京を出て加賀の国を経て奥州に向かう途中でこの地を通過し、弁慶がこの井戸を発見し一行の喉をうるおしたという。そして昭和20年の「東京大空襲」の際にはこの井戸が被災者の飢渇から救ったという。
<朝の不忍池>
<麟祥院のお庭>
<春日局の墓・四方を見渡す丸穴が>
この後、不忍池をグルリと周り、無縁坂を上がって「麟祥院」に出る。なんといつもは門を閉じているのだが、今日は早朝から開いていた。麟祥院の庭園は非常に手入れがいいのであたかも京都に来ている錯覚に陥入ってしまう。墓地の奥手にある「春日局の墓」を訪ねてしっかりと手を合わせた。春日局は徳川3代将軍家光公の乳母で「大奥制度」を確立させた実力者だが、「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せるように墓を作って欲しい」との春日局の遺言により、墓石の四方に丸い穴が開いて世を見渡せるようにしてあるという。私が手を合わせた理由は、現在の政治も問題滞積であるので是非正しい方向に行くように丸い穴からじっくりと見守って欲しいとお祈りした訳だ。わずか1時間半、7000歩のブラブラ散歩だったが、沢山のことを発見した朝だった。

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