2010年7月21日水曜日
連歌・俳諧・俳句について
7月17日【連歌の可能性について(連の楽しみ)】という高城修三氏による市民公開講座を聞きに行って来て、連歌、俳諧、俳句の歴史に触れて、何かスッキリした気分になれたのです。私は俳諧と俳句の違いをシッカリ理解していなかったのですが、高城氏の連歌に関する講義を受けてクリアにする事が出来たのですから、今俳句に挑戦している私に取っては「驚きと発見」だったのです。
それでは私の「驚きと発見」をかいつまんで下記に述べたいと思います。
●俳句は歴史の浅い「近代文学」である。
●芭蕉も俳諧をやってたのだ。
●連歌・俳諧はみんなで作る句集だから「開かれた文学」である。
●正岡子規が西洋近代文学の視点から「連歌形式は文学にあらず」と否定。 連歌の付句を廃止し発句を「俳句」と改め 「作者の個性で閉ざした文学」とした。
そして700年の歴史を持つ連歌・俳諧は忘れ去られる。
●子規の弟子「高浜虚子」が師に背けず、俳諧をそのまま擁護できず、「連句論」 として展開、現在に至る。
さて「連歌」の面白さは発句(5・7・5)から次の人が「脇」(7・7)を詠い、そして次の人が「第三」(5・7・5)を詠み次に四句(7・7)、五句(5・7・5)~と順々に続け「挙句」まで行くのですが、これらが繋がって一つの物語となるのです。(つまりこれが「連」の楽しみです。)
この連句が重なって行くに従って前の句の意味が全く変わって行くのです。そこが大変に面白そうですね。
連句・俳諧はこのように大勢の人で繋げてゆく面白みがあった訳ですが、発句のみにしてしまった俳句は季語と「切れ字」で面白み(驚き)を表現することになったようです。
つまり俳句(発句)の作り方のヒントは、(5)+(7・5) あるいは (5・7)+(5)と切れ字で分かれ、その二つを結びつけるワザだと言う事になりませんか。 つまり上手に二つを繋いでとんでもない味をだすワザなのです。つまりは「料理」や「服装」と同じ感覚だそうです。
あの有名な俳句でもそんな経緯を辿ってきているのだそうです。
「蛙飛び込む水の音」(7・5)の驚きは「蛙鳴く」ではなく「飛び込む」としたところだそうだが、その上が「やまぶきや」もあったそうな。
「岩にしみ入るセミの声」もそうだそうで、上に「山寺や」もあったそうな。それらの上が「古池や」そして「閑かさや」に収斂し世の中に残る名作となったと言われています。
だから俳句の作り方の要領として、まずは普通の現象・出来事をまず書き出しておいて、もう一つの方を驚きなる言葉を探し出し、その二つを組み合わせて驚かすように(自己満足だが)作ったらいいのではなかろうか。こう考えると何かすんなり創れるような気がして参りました。
私も4月からインターネットの投句会に参加して、これまでに10句ほど投句致しました。毎月1000句ほどが集まって来て皆さんでそれぞれ選句するのですが、この選句作業も大変です。1000句の内から気に入ったもの5句を選ぶのですが、1句に30秒を掛けたとして全部詠み切るには8時間強掛かります。私の投句でどなたかに選ばれ加点頂いた句が2つあります。それにしてもこれまでに2回投句したのですが、それぞれに1000句ほどの作品があり、その中で私の俳句を選んで頂いた訳ですから、本当に感謝、感謝です。
それではどなたかに感じて頂いた2句とは;
路地裏に子規偲ばれる福寿草
夏の朝屋根がゆらゆら露天風呂
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