4月23日(土)地元の老人会の皆さんと西片の台地を歩きました。西片台地とは本郷台地の一部分ですが、江戸の末期備後福山藩の阿部家の中屋敷のあった所で、明治に入って東京大学が近いこともあり多くの文化人が住み着きましたが、その中で「夏目漱石」もその一人。
皆さんでおよそ1時間半歩いた後で、集会室にて近所の「鮒兼」から出前した「うな重」を食べながら、私が「漱石」と文京区との関連をお話ししました。その時に使った図が下の図です。黒枠が文京区を示し、数字は漱石の足取りを示します。
1番が漱石誕生(1867年)の地「新宿区喜久井町」、そして四谷の古道具屋へ「里子」に出されたが(2番)すぐに戻され、その後で内藤新宿の塩原家に「養子」に出されたが(3番)、塩原家が浅草に引っ越す(4番)。しかし1876年塩原夫妻が離婚してしまい漱石は再び夏目家に戻され、1890年に東大に入って文京区・小石川に下宿(5番)、その後小石川の尼寺・法蔵寺に下宿先を変える(6番)。大学を卒業し英語の先生として四国松山に赴任(7番)、1年後の1895年今度は熊本県の第五高等学校講師として転勤(8番)となる。そして結婚するが1900年に文部省から2年間の英国留学を命ぜられる(9番)。2年後熊本に戻り(10番)、東大でのラフカディオ・ハーン後任講師として東京へ移動、文京区・千駄木に居を構える(11番)。ここで「吾輩は猫である」を書いたので、ここを「猫の家」と呼んでいる。1906年に文京区・西片町に転居(12番)、しかし家主との折り合いが悪くわずか9ヶ月で早稲田南町に引っ越すが(13番)、その8年後1916年胃潰瘍と糖尿病併発で死去、49年の生涯を閉じた。
このように目の回るような転地も凄いが、もっと凄いのが強靭な精力か。8番から11番の間の8年間に4人の娘を作り、12番から13番での1910年までの4年間に息子2人と五女を作り、しめて7人の子を作ったのである。なんと強烈なる精力の持ち主であろうか。
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