2016年6月18日土曜日

孫と土に戯れる

6月の日曜日、友人の畑で芋掘りをさせて頂いた。最近の子供たちは土に触れる機会がなかろうと、息子一家を誘っての芋掘りだった。孫たちは土の中に手を突っ込み大はしゃぎ。
軟らかな土の中で硬いもの触れた感じ。「お芋」はどうやって土の中に居るのかを体で知る。そして土の中から蟻やオケラや、そして色々な虫の幼虫がゴソゴソと出てくるのを興味深く観察している。小さな生き物と私たち人間もこうして共生していることを学んでくれるといい。じゃがいも、玉ねぎ、赤かぶ、大根などの「土物」、そしてキャベツ、レタス、ふき、などなど色々な野菜を収穫しました。お昼になると皆さんで畑の脇にビニールマットを敷いての昼食を楽しみました。野原でこんなピクニックは私にとって何年振りのことでしょう。前回がいつ頃だったかは全く思い出せません。帰りには沢山の野菜のお土産を頂き、本当に楽しい有意義な「感謝の1日」でした。

2016年6月13日月曜日

梅雨にも負けず(佐藤正明作)

「辞め」にも負けず カネには負けて
都議にもマスコミの熱さにも負けぬ
丈夫なメンタルを持ち
日ごと回転ずしとイタリアンを食べ
あらゆるものを自分で勘定し
東に病気の自分あれば
行って温泉に入れてやり
西に疲れた妻あれば
行ってホテルに泊めてやり
みんなにセコイボーと呼ばれ
褒められもせず 苦にはされて
そういうものに 私はなった
(東京新聞6/11より)

2016年6月5日日曜日

顔は性格(性分)を表す

さてさてここに掲載されたオジンの顔をジックリとご覧いただきたい。この顔々は6月2日のある新聞に載っていた顔を並べたものである。別段この写真の順番が「重要度」とか「人気度」の順とかいうものでは無く、ただその新聞の1面から2面、3面、4面~〜の紙面上に記事と一緒に載っていた写真を順番に並べただけなのだ。しかし、これらを見て少なくとも「不快感」あるいは「不信感」を抱いてしまうのは私だけであろうか。そこで次のような「入試問題」を作ってみたが、どうであろうか?
(問題1)それぞれの写真を見て下記の【グループA】の中からその写真に最も関連した言葉を選びなさい。
【グループA】斡旋利得、 トランプゲーム、 馬鹿仕合、 アベノミクス、 ファーストクラス

(問題2)この写真が載っていた新聞記事の中で使われていた用語はどれか、写真ごとに次の【グループB】の中から選びなさい。
【グループB】公約違反、 資金集め、公私混同、 不起訴、 軍事挑発
(問題3)この5枚の写真を見て総合的に題名を付けるとすればどれが適当か下記の中から選びなさい。
 ・不信感の塊
 ・はずかしい大人
 ・資本主義の末路
 ・コンプライアンスを知らない人々
 ・不快をバラ撒く人たち

しかしこの写真がたった1日の新聞紙上に載っていたのですから、何という時代なのでしょう。退屈しない時代と言うことでしょうか。21世紀を背負って行く子供達の為に真剣に自分の行動を考え直して貰いたい人たちと言えましょう。
ところで(問題1)、(問題2)は易し過ぎますが、(問題3)はちょいと考えたのでは?この(問題3)にどれが正しいかの正解はありません。いや、5つ全てが正解かもしれませんね。

2016年5月26日木曜日

NPO「江戸連」皐月講と里山ウォークとゴルフ

<さきたま古墳群>
正面①の前方後円墳が「二子山古墳」それから時計方向
に円墳の「丸墓山古墳」、その下に前方後円墳の「稲荷
古墳」その左に前方後円墳の「将軍山古墳」
江戸連の皐月講は「行田・埼玉古墳群と忍城・足袋蔵巡り」と銘打って日帰りバス旅行だった。この旅行で私に興味を引いたのが『埼玉(さきたま)古墳群』の言葉だった。やはり歴史好きの集まり「江戸連」だけあって参加者は51人というバスの補助席まで使う大勢の参加だった。まずは「さきたま史跡の博物館」を訪ねる。そこでは稲荷山古墳から発見された国宝「金錯銘鉄剣」のレプリカではなく実物を見ることが出来た。午後は行田市に出て現地のボランティアによる案内で「足袋蔵」巡り。
<忍城>
行田が足袋の生産地になったのは、綿布の生産地であり、また藍染が盛んであったことにより、17世紀後半から武士の内職として発達し、保管用の蔵を作り商品を火災から守ったらしい。次に行田市の中心に位置している「忍城(おしじょう)」を訪ねたが、この城は室町時代に築城された平城で、豊臣秀吉の関東平定の際に石田三成による「水攻め」に耐えた「浮き城」とも言われ、その後徳川家康の持ち城となったが、「戦国の時代、周りの権力の変遷にじっと耐え” 忍んだ城”」だった事を知った。

ところで私が今回のバス旅行で最も驚かされたのは最後に訪ねた加須市(かぞし)にある「古民家」で起きたのだ。古民家の保存に努められボランティアでガイドをされている奧澤市孝氏の熱の入った「郷土史解説」に私は聞き入ってしまったのだ。
<加須の古民家を訪ねて>
話の中で「寄居の”鐘撞堂山”を知ってますか?」と聞いて来たのでつい私は手を上げてしまった。多分手を上げたのは私一人だったであろう。私に取っては「鐘撞堂山」はこの4月24日に友人と登ったばかりだったからだ。更に話は進み加須にあった「油井が島」の城が「猪俣小兵六」による築城という話になり、またまた寄居の「猪俣の百八燈」の”盆祭り”の話になって行ったのだ。私はちょくちょく『オリンピック・レイクつぶらだC.C.』にゴルフに行っているが、行く途中に車中から「猪俣の百八燈」の案内看板が気になっていたのだが、何と今回のお話でそれが何であるかを知ったのだ。この”偶然の繋がり”は一体どうゆうことなのか? 早速家に帰って地図帳を開いてみると、何と「寄居市」と「行田市」と「加須市」は横一線上に位置していることに気づいた。
<奥澤氏の熱の入ったお話>
旧石器時代(1万年前)よりこの地に人類が住み始め、更に時が経ち海が引いて広大な平地が現れ、そこで農耕が発展して大きな村落が生まれ、やがて古墳時代(3~7世紀)を迎え、そして荘園が生まれ勢力を堅持する「平城」が北関東のあちこち築城され(8~12世紀)、鎌倉時代になって豪族の争いを繰り返し(13~15世紀)、江戸時代になって徳川御三家・水戸家の勢力に治まったのだ。古代には信州・和田峠で取れたヒスイが碓氷峠を越えて「さきたま」に送られ、中世に入って武蔵国・秩父郡から古道「山辺の道」が上野国を走る「鎌倉街道」や「羽根倉道」を横切って「奥州道」に繋がっていたとすれば、古の昔から寄居と行田と加須を結ぶ真横に走る大事な道が有ったと言うことになる。

2016年5月8日日曜日

カナダの山火事と東京大空襲

熊本/大分の連続地震でその被災者の避難状況をニュースを見て心痛めている最中、今度はカナダ・アルバータ州での「山火事」のニュースが飛び込んで来た。大規模な山火事が発生してすでに1週間になるが手の打ちようがなく、数日後に予報されている雨降りに期待しているという。ぼうぼうと山林が燃えている横を命がけで逃げる車が一列に繋がっている迫力あるシーンが映し出される。何と残酷な姿であろうか。8万人が避難し、東京23区の面積の5倍の広さが焼失しているという。

この火の海の放映を見ていると、数ヶ月前に読んだ早乙女勝元著『東京大空襲』~昭和20年3月10日の記録~(岩波新書)が思い出された。勿論小生は昭和の19年生まれであるから東京大空襲を自分の目で見たわけでは無いが、しかし米軍の戦闘機B29が600機以上で東京上空から一般市民を目掛けて焼夷弾の雨を降らせ一面を火の海にしたという。この本はその著者自身が猛火の中を逃げまどいかろうじて生き残った一人だったので、人間の義務としてあの恐ろしい夜の惨状を復元し、戦禍の真相を活字にとどめておきたいとして、その空襲の体験者を一人ひとり訪ね歩きノンフィクションとして書き上げたものである。

今、アメリカの大統領選の動きを見ても、そしてヨーロッパのEUにしても、そしてイスラム勢力の台頭にしても、世界中の動きが何かおかしい。しかし人類の平和の根幹は一つ。戦争はしないこと、相手と戦うのではなく、相手の立場をお互い様として理解することに尽きるのだ。「戦争は絶対にしない」ために、戦争を知らない私たちは是非この『東京大空襲』を一度読んで欲しい。

2016年4月30日土曜日

山ツツジ満開の「鐘撞堂山」をハイキング


4月24日(日)快晴の中、友人二人と奥武蔵山系にある里山「鐘撞堂山」(標高330m)を歩いて参りました。池袋を8時発の東武東上線「小川町」行き急行に乗り寄居駅着が9時30分。「八幡大神社」まで歩きその脇から「八幡山」の山頂を目指して初っ端から急な登り。30分ほどで「八幡山」山頂に到着。そこから新緑に包まれた山道を歩くが、道沿いを赤色に染める「山ツツジ」が素晴らしい。
お昼前に「鐘撞堂山」山頂に到着。ここで昼食を摂り、そこから「少林寺」を目指す。途中でヘラブナやワカサギ釣りで釣人には知られた「円良田湖」をかすめて「御嶽山」(247m)を登ると、頂上の「花園御嶽城址」には沢山の石碑が立っており信仰の深そうな雰囲気は何か神様に近ずいた様な気持ちになりました。ここからの山道は「五百羅漢」といわれ道の両サイドには石像が行列を作っており、しばらく下って午後1時30分に静寂に包まれた「少林寺」に到着。ここから秩父鉄道の「波久礼」駅に出る途中で「かんぽの宿・寄居」に寄って「金山温泉湯」に浸かり汗を流しました。その後でのビールの味は格別、そして我が家に戻ったのが午後5時過ぎでした。
<少林寺とモミジの花>

2016年4月28日木曜日

夏目漱石と文京区

4月23日(土)地元の老人会の皆さんと西片の台地を歩きました。西片台地とは本郷台地の一部分ですが、江戸の末期備後福山藩の阿部家の中屋敷のあった所で、明治に入って東京大学が近いこともあり多くの文化人が住み着きましたが、その中で「夏目漱石」もその一人。
皆さんでおよそ1時間半歩いた後で、集会室にて近所の「鮒兼」から出前した「うな重」を食べながら、私が「漱石」と文京区との関連をお話ししました。その時に使った図が下の図です。黒枠が文京区を示し、数字は漱石の足取りを示します。

1番が漱石誕生(1867年)の地「新宿区喜久井町」、そして四谷の古道具屋へ「里子」に出されたが(2番)すぐに戻され、その後で内藤新宿の塩原家に「養子」に出されたが(3番)、塩原家が浅草に引っ越す(4番)。しかし1876年塩原夫妻が離婚してしまい漱石は再び夏目家に戻され、1890年に東大に入って文京区・小石川に下宿(5番)、その後小石川の尼寺・法蔵寺に下宿先を変える(6番)。大学を卒業し英語の先生として四国松山に赴任(7番)、1年後の1895年今度は熊本県の第五高等学校講師として転勤(8番)となる。そして結婚するが1900年に文部省から2年間の英国留学を命ぜられる(9番)。2年後熊本に戻り(10番)、東大でのラフカディオ・ハーン後任講師として東京へ移動、文京区・千駄木に居を構える(11番)。ここで「吾輩は猫である」を書いたので、ここを「猫の家」と呼んでいる。1906年に文京区・西片町に転居(12番)、しかし家主との折り合いが悪くわずか9ヶ月で早稲田南町に引っ越すが(13番)、その8年後1916年胃潰瘍と糖尿病併発で死去、49年の生涯を閉じた。

このように目の回るような転地も凄いが、もっと凄いのが強靭な精力か。8番から11番の間の8年間に4人の娘を作り、12番から13番での1910年までの4年間に息子2人と五女を作り、しめて7人の子を作ったのである。なんと強烈なる精力の持ち主であろうか。