2015年6月15日月曜日

アベちゃ〜〜んへの質問状:「日本は大丈夫ですか?」

ある山奥に住む(ここでいう“山奥”とは現在の低次元なマスコミから遠く離れた山岳地帯を意味しています)変人の一人である日本国住民”イッポウ君”から質問状が届きました。
「日本の安全は大丈夫ですか?」
「安保法案を通せば、日本は本当に安全なのですか?」
「集団的自衛権の行使は自衛隊員に危険をおっ被せていませんか?」
「こんな時代になってもまだTPPを成立させねば貿易はダメになるのですか?」
「東京五輪の計画は日本建築の値打ちを無視し、あまりに杜撰すぎませんか?」
「原発をベースロード電源にするとあなたは今だ主張していますが正気ですか?」
「中国はあなた達を適当にあしらっていることに気が付いていますか?」

そこで、山奥で秘密電波をキャッチした本当の様な話をお伝えしましょう。

「隣の国は本当にバカやな。我々には十分なるエネルギーの貯蓄なぞない。もし戦争が始まれば我々は1日として持たない。エネルギーが無いので、戦車も船も飛行機も長時間動かせられぬのじゃ。だから言ってるやろ。現在設置しているミサイルは日本の「原子力発電所」を一発で破壊せよ。絶対に逸らすな! それも稼働している原発をターゲットにせよ。それを破壊すれば、日本は大慌てや。自分達の手で放射能被害を食い止めんと躍起になりおる。今の東北の姿を見れば分かるはずやがな。自分達で勝手に慌てるので結果的に我が国へは日本から反撃を受けることがないのじゃ。こんなことあの国の連中は何故分からないのかなあ。そんな訳で日本には原発の再開をドンドン進めて欲しい。我々は戦争が始まったら、そこをターゲントにするやさかい。ところで我が国が逆の立場だったら、”今度どこどこの原発を再開する”などとは口が裂けても言わんな。だって、そこを敵に狙われるジャン!」
この電波傍受はどこの国からかは、お分かりですよね。

本当に日本はおめでたい国なのでしょうか?
おいおい、大丈夫かよ!! アベちゃ〜〜ん!

2015年6月1日月曜日

東国万葉の道「手児奈伝説」を訪ねて

<手児奈霊神堂>
6月1日、毎月1日の早朝に近所の寺で行われる「大護摩」に参加したが、余りの天気の良さに、もし今日を逃すと梅雨に入ってしまい、気になっていた「願い」が先に伸びてしまうのではと不安になった。「やるなら今でしょ!」という事で、市川真間の絶世の美女「手児奈姫(てこなひめ)」が眠る「手児奈霊神堂」に行こうと即断した。多分、私は彼女の魅力に無性に引き付けられたのかも知れない。
昔々の神話の時代に「手児奈」という美しい娘がこの地に居て、その噂が全国に知れ渡り里の若者のみならず国府の役人や都からの旅人が結婚を迫ったという。
しかし手児奈は「わたしの心はいくらでも分け与えられるが、体は一つ。もしわたしがどなたかのお嫁さんになると、他の人たちに不幸を与えてしまうでしょう」と悩みながら、遂に真間の入り江に夕日が沈むのと一緒にひとり海に入って行ってしまったのです。「万葉集」の中でも、山部赤人や高橋虫麻呂の歌人たちも、はるばる都からこの地を訪ね歌を詠んでいる。
<下総国分寺>
奈良時代に聖武天皇は全国に「国分寺」「国分尼寺」を建てますが、市川真間の地は下総の中心地としてその両寺が置かれ、【行基菩薩】がこの地に来た時に「手児奈姫」の話を聞き、痛くその心情を哀れに思い「求法寺」を建て手厚く弔われたといいます。平安時代には【弘法大師(空海)】もこの地に来て求法寺を「弘法寺(ぐほうじ)」と改称されました。なにせ古代から中世、そして近代へと次から次へと男性が彼女を訪ねて来ていたのです。
さて、今朝はいつもより早めに朝食をとり、JR総武線で「市川」駅到着(8:15)、「真間銀座」を歩き抜け京成電鉄「真間」駅に出て、そこから5分ほど歩いて「文学の道」に出ます。
<真間川>
青い葉で覆われた桜並木は大変に気持ちが良かったです。そこはこの市川真間にゆかりの有る文学者達を紹介したパネルが配置された回廊となっているのです。パネルでは、水原秋櫻子、阪井久良伎、幸田露伴、永井荷風、水木洋子、北原白秋、中野孝次、山本夏彦、井上ひさし達が紹介されていました。しばらく歩くと間もなく「真間川」に突き当たり、そこから「手児奈霊神堂」までは10分程で到着。すぐ道を隔てた向かいが「亀井院」となっていて、このお庭に「真間の井」があり手児奈がこの井戸で水汲みをしたそうです。
<亀井院の「真間の井」>
この後「下総国分寺」「国分尼寺跡地」そして「じゅん菜公園」に出て(12:00)公園の木陰のベンチで池を眺めながら、のんびりと昼食をとり、その後は「小塚山公園」—「堀之内古墳公園」—「堀之内緑地」を通過して北総鉄道「北国分」駅に到着(12:50)。北総線は地下鉄浅草線に直結していて、蔵前駅で大江戸線に乗り換え我が家には午後2時には着いておりました。(20300歩)
今日は古代の美女に近づくことが出来て、歴史の深いところに触れたような気がして、好天の元での楽しい“ひとり歩き”が出来ました。今夜はキット“手児奈姫の夢”が見られるかもーー。
<じゅん菜池>

2015年5月9日土曜日

【神田川・都心部】ひとり歩き

2年前の2013年10月14日『体育の日』に【神田川上流部(井の頭池〜環七通り「方南橋」まで)】を歩き、その行程録を10月20日のブログに書きました。しかし残りの部分【都心部(方南橋〜隅田川まで)】の「ひとり歩き」が出来ずに気になっていたのです。このゴルデンウィークは快晴の日が続いたので、よしこの機会にと、遂に5月4日『みどりの日』に念願が叶ったのです。
<栄橋の向こうに地下鉄・丸の内線の車両が>
朝7時半に家を出発、まずは地下鉄・大江戸線の春日駅から都庁前駅で乗り継ぎ中野坂上駅で丸の内線に乗り換え方南町駅へ出ます。地上に出てすぐにコンビニで朝食のおにぎりと飲み物を購入し、環七通りに沿ってしばし南下します。
すると神田川が環七通りと交差する「方南橋」に到着し、いよいよ“神田川ひとり歩き”のスタートです。(8:40)
<手前からの善福寺川が神田川に合流>
川はすぐに北上し「方南通り」に掛かっている「栄橋」に着きます。川の右側には丸の内線の車両がながめられますが(一番上の写真)、ここが「中野検車区」という車庫になっていて、地下鉄・丸ノ内線に中野坂上から方南町までの引込み線が有る理由がこれで分かりました。そしてすぐに「善福寺川」との合流点に着きます。この辺は川がコンクリートで固められており、その合流点の姿は余りにも寂しい感じがしました。(井の頭公園からここまで約10km)きっとここには魚も水辺の昆虫類も居ないのでしょう。
<中野新橋の赤い欄干>
丸の内線中野富士見町駅のそばの「富士見橋」から中野新橋駅のところの「新橋」までの700mは神田川に沿った道はありません。しかし「新橋」から先はまた神田川に沿って歩くことが出き、しばらく川に沿って整備された歩道を歩くと、道幅の広い「山手通り」に出ます。(9:50)ここを渡って川沿いの道は左側が中野区で「神田川四季の道」として、そして右側が新宿区で「やすらぎの散歩道」として、両サイド共に植栽などがきれいに手入れされており素晴らしい散歩道となっています。
<「やすらぎの散歩道にて>
これらの遊歩道は「川の管理道路」という名目だそうで、西武新宿線の上落合駅の近くの「瀧澤橋」まで続いています。この瀧澤橋からは一旦川から離れ「東京富士大学」入口前に出て「さかえ通り」商店街を通り抜け
JR「高田馬場」駅の傍に出て、ガードを潜ってすぐの交差点を左に折れて「神高橋」から再び川沿いを歩きます。すぐその先で「新目白通り」と「明治通り」の交差点に出ますが、そこで神田川は大きく90度右に方向を変えます。都電「荒川線」の線路を渡った先の「曙橋」から「江戸川橋」に至るまでの2Kmは、川の両サイドに桜の木々が生い茂っていて「江戸川公園」として桜の名所になっています。その途中「駒塚橋」の所にある「関口芭蕉庵」にて休憩、ひとり庭の中の東屋の縁台に腰を降ろして、風になびく木々のダンスを眺めながら緑陰を楽しみました。(11:30)
<関口芭蕉庵での一時>
この後は高層ビルの合間を縫って「大曲」で神田川も大きく右に曲がり「飯田橋」に出て今度は左にカーブして、「水道橋」の交差点に出て緩やかな「御茶ノ水坂」を登るとJR「御茶ノ水」駅前にでます。ここは学生の町なので相場が安く、ここで昼食をとる事にしました。(12:30)
<柳橋から屋形船群を>
この後神田川は若者の町と化した「秋葉原」を通過し、「浅草橋」に来ると川の両岸には屋形船や釣り船がずらりと繋留されていました。そして隅田川に出る手前の最後の橋が「柳橋」。 柳橋の名の謂れは8代将軍吉宗の命で南岸土手に柳が植えられ“柳原堤”と呼ばれたことによると言われますが、何と言っても江戸中期から昭和にかけて花柳界が大いに栄え“万八楼”や“亀清楼”などの名だたる料亭が流行っていた歓楽街であったそうですが、今はその面影が無いのが誠に残念です。隅田川の土手に出てみようと直進しますと、道は靖国通りに出てすぐに「両国橋」になります。橋の上からは正面に見える「スカイツリー」が真っ青な青空に突き刺さっておりました。これで「神田川ひとり歩き」“都会編”は無事に終了、時計を見ると丁度午後2時になっておりました。(26,963歩)
<両国橋からスカイツリー・正面の橋はJR総武線の鉄橋>
井の頭公園から流れ出し、最後は隅田川に流れ込む「神田川」全長およそ20Kmを今回で歩き切った事になり、大いに清々しい気分で家路に着きました。



2015年5月3日日曜日

GWと散歩

<太栄館の正面玄関>
今年のGWは天候に恵まれているようだ。5月2日(土)真っ青な空で清々しい朝を迎え、じっとしておられず外に飛び出した。私にとって近所の散歩は珍しいことではないが今回は何気なくカメラをポケットに入れた事もあり、「よし、新しい発見を探して行こう」と目標を定めた。我家を出て言問通りを突っ切り「新坂」と言う急勾配の細い坂を登り切った左手に日本旅館「太栄館」がある。そこで最初の驚きに直面。
<解体中の太栄館、道の左先が新坂>
何と歴史ある太栄館が解体されているではありませんか。この辺一帯は東大教授や学生の下宿屋や日本旅館が多く、旅館は昭和時代には「学生修学旅行の宿」として流行り、その後外国観光客の人気の的となったが、修学旅行は海外に行くようになり、最近の外国人観光客はもっと安い旅館がある浅草や山谷に流れて行ってしまい、そんな時代の変遷がいよいよ老舗日本旅館を店じまいさせたのだろうか。この太栄館は明治41年に「石川啄木」が北海道放浪の後上京して9ヶ月間投宿した。高台に建っているせいで、窓からは富士山が見えると啄木は大いに喜んだという。しかし宿代が支払えず、近所に住む「金田一京介」の世話で「蓋平館」(太栄館の旧称)の別館に移った。そんな歴史がある太栄館が無くなろうとしている。
<店じまいの「万定」>
<活躍した金銭登録機>
その道を真っ直ぐ行くと本郷通り(国道17号線)に出るが、その通りに出ると突き当たり右手に「東大正門」がある。その通りに出る角の左手で二つめの驚きに直面する。左手角は「万定(まんさだ)フルーツパーラー」なのだが、完全に店じまいしていた。きっと後継もおらずして静かに歴史を閉じたのであろうか。私も学生のころ、真夏の暑い日に冷たいフルーツジュースを飲んだ思い出がある。その時出口の支払いをする所に現役で働いていた古典的な”金銭登録機”が印象的だった。
東大正門から「安田講堂」前を通過して「三四郎池」の緑陰の中を歩く。新緑の間から射す木漏れ日とちょっと冷やっこい空気が気持ちを爽快にさせてくれる。
<静寂の三四郎池>
<弁慶鏡ケ井戸>
東大「不忍門」から外に出た所に「境稲荷神社」があるが、そこには「弁慶鏡ケ井戸」がある。今日のように時間に余裕のある散歩ではじっくりと案内説明板を読むことが出来た。説明板によれば、「境神社の”境”の意味」はこの付近が忍ケ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、そして「なぜこの地に弁慶が現れたのか」は、武蔵坊弁慶が義経一行と共に京を出て加賀の国を経て奥州に向かう途中でこの地を通過し、弁慶がこの井戸を発見し一行の喉をうるおしたという。そして昭和20年の「東京大空襲」の際にはこの井戸が被災者の飢渇から救ったという。
<朝の不忍池>
<麟祥院のお庭>
<春日局の墓・四方を見渡す丸穴が>
この後、不忍池をグルリと周り、無縁坂を上がって「麟祥院」に出る。なんといつもは門を閉じているのだが、今日は早朝から開いていた。麟祥院の庭園は非常に手入れがいいのであたかも京都に来ている錯覚に陥入ってしまう。墓地の奥手にある「春日局の墓」を訪ねてしっかりと手を合わせた。春日局は徳川3代将軍家光公の乳母で「大奥制度」を確立させた実力者だが、「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せるように墓を作って欲しい」との春日局の遺言により、墓石の四方に丸い穴が開いて世を見渡せるようにしてあるという。私が手を合わせた理由は、現在の政治も問題滞積であるので是非正しい方向に行くように丸い穴からじっくりと見守って欲しいとお祈りした訳だ。わずか1時間半、7000歩のブラブラ散歩だったが、沢山のことを発見した朝だった。

2015年4月26日日曜日

マンガ大国日本と浮世絵

<見返り美人図/菱川師宣>
最近はインターネットを介してマンガ作家が海外に自分のマンガを輸出していると言う。そういえば日本にはマンガと言えば“手塚治虫”を筆頭に私の少年時代には「巨人の星」や「あしたのジョー」で私を夢中にさせた“梶原一騎”、そして新聞の4コマ漫画では、“長谷川町子”の「ササエさん」や“秋好馨”の「轟先生」などの大御所が居た。
昨日NPO「江戸連」の【卯月講:浮世絵の歴史】の講演を聞いた。絵に文字やセリフを書き足したのは浮世絵が始まりと言うから、マンガの先祖も浮世絵ということになる。そんなことを考え巡らすと、マンガそして絵画の世界はやはり日本が中心になっていたのではと考えてしまう。
<汗を拭く女/喜多川歌麿>
浮世絵は江戸初期の1670年頃“菱川師宣(もろのぶ)”によって浮世絵版画が成功し広まったと言う。江戸中期(1760年代)になって“鈴木春信”によって多色刷りに成功し浮世絵の黄金時代を迎えたという。兎に角この時代の「下絵師」、「彫り師」、「擦り師」の分業体制は当時日本に来た外国人からは、ずば抜けた高度な文明だと感心させたそうだ。江戸の後期(1830年代)になって、“葛飾北斎”の「富嶽三十六景」や“歌川広重”の「東海道五十三次」など名所絵で活況を呈す。
<ヨーロッパの風刺画の例>
この頃ヨーロッパでは“ゴッホ”や“モネ”な どの印象派画家が活躍しているのだが、彼らは日本の浮世絵に興味を抱き自分の画風に参考にしていたほどである。また日本美人画の代表である“鏑木清方(かぶらぎきよかた)”も師匠が浮世絵師の“水野年方”であったという。
そういえばつい最近フランス・パリで【イスラム風刺画騒動】が起きていたが、ヨーロッパの風刺画を見ても、菱川師宣や北斎、広重の風刺画や春画の方が一枚も二枚も上手だと見てしまうのは依怙贔屓なのだろか?(浮世絵はインターネットから拝借しました。)

2015年4月13日月曜日

【ジオパーク】をご存知ですか?

<大室山>
4月12〜13日、1泊2日で伊豆国立公園内の「大室山」の麓にあるホテルで大学時代の同窓会が催された。1日目は晴れて「城ヶ崎」の海岸線に沿って「ぼら納屋」から「門脇吊り橋」を渡って「蓮着寺」まで散策(約3km)を楽しみ、夕方になって、ホテルに向かう途中で不思議な形をしている山が突然に眼前に現れて驚く。それが「大室山」だったのです。
<城ヶ崎・門脇吊り橋>
翌日の今日は朝から雨。今日は「美術館めぐり」が予定されていたが、この雨ではと早々と帰路に向かい伊豆高原駅に出て電車時間までに30分ほどあるので、駅の中に併設してある「ジオパーク案内展示場」に立ち寄る。
そこで何と昨日の「城ヶ崎」と「大室山」が一本の線で繋がったのです。
「ジオ」とは「大地」の意味。そして伊豆半島は約2000万年前、はるか南のかなた数百kmの先の太平洋の海に沈んだ火山群だったそうだ。その後フィリピン・プレートの北上とともに日本の本州と衝突し、約60万年前に今の半島のように持ち上がったという。20万年前までは、「天城山」「達磨山」などあちらこちらで頻繁に噴火が起きていたそうだ。そしてこれら「伊豆東部火山群」は今でも「活火山」だそうだ。城ヶ崎海岸は約4000年前に噴火した「大室山」から大量の溶岩が相模灘に流れ込み出来上がった「岩石海岸」だそうだ。

<大室山の勇姿・先に相模灘>
ところで「ジオパーク案内展示場」にて、日本には32の「ジオパーク」があり、その内6つは「世界ジオパーク」として登録されていると学んだ。(下の日本地図参照)この【ジオパーク活動】は地球の自然・資源の保全・保護を目的にユネスコの支援のもとで世界的に取り組まれており、現在25カ国77地域が「世界ジオパーク」に認定されているという。こんな大事な活動が何故もっと知れ渡っていないのだろうか。それにしても今日は雨のお陰で【ジオパーク】を知ることができたので、今日に限っては「恵みの雨」になったのである。
(写真はネット上のものを利用させて頂きました。謝々)